暑さもやわらぎ、秋めいてきましたね。皆様いかがお過ごしでしょうか?
この秋街道あるきを始めた方もいらっしゃると思いますので、今回は街道あるきでよく耳にする用語をまとめてみました。街道あるきベテラン勢もぜひ、予習復習にお役立てください♪
(アイウエオ順で掲載しております)

一里塚(いちりづか)

画像: 御代田の一里塚(中山道)

御代田の一里塚(中山道)

江戸日本橋を起点に、一里(約3.9km)毎に置かれている塚。街道の両脇に約9m四方の土を盛り、その上に榎・松などを植えました。江戸時代以前から一里塚は存在していましたが、慶長6年(1604年)、江戸幕府は東海道・中山道・北陸道の3街道に一里塚設置を命じ、本格的に整備されました。旅人は一里塚を行程の目安とし、木陰を休憩場所にしていたようです。

追分(おいわけ)

画像: 日永の追分(東海道・伊勢街道)

日永の追分(東海道・伊勢街道)

道路の分岐点。観戦街道と支線街道の分かれ道を示しています。進行方向や目的地、距離などが刻まれています。写真の「日永の追分」は三重県四日市にある、江戸から京都・大阪へとつながる東海道と、伊勢神宮へつながる伊勢街道の分岐点です。道標に「左いせ参宮道」「右京大坂道」と刻まれていますね。茶屋が開かれたところもあり、旅人は名物の団子やお餅を食べて一息ついていたようです。

高札場(こうさつば)

画像: 中山道・長久保宿の高札場

中山道・長久保宿の高札場

幕府や藩主などが発令した法度・掟・犯罪者の罪状などを墨で記した「高札」や「立札」を掲示した場所。宿場内や追分・渡船場・関所など、旅人の目につきやすい場所に設置されました。人々が行きかう交差点(辻)に設置されることが多く、「札の辻」と呼ばれていました。札の辻という交差点、見かけますが、昔は高札場があったんですね。

庚申塔(こうしんとう)

60日ごとに巡る庚申の夜に眠らずに過ごして、健康長寿を願う民間信仰によって建立された供養塔。庚申信仰とは、人の体内に棲む三尸(さんし)という虫が、庚申の晩に天に昇り、閻魔様の家来である司命(しみょう)に罪過を報告して人の寿命を縮めるというもの。庚申待(こうしんまち)として徹夜して眠らなければ、三尸は司命に報告できないので長生きできる、とされました。
もともと身を慎む庚申待でしたが、しだいに楽しい集会になり、農業の方法などを共有する場になりました。その集会を3年18回行った記念に建立されたのが庚申塔です。病魔を払うとされる青面(しょうめん)金剛像や、謹慎の態度を示す三猿が彫られたものが多くみられます。

宿場(しゅくば)

画像: 長野県・妻籠宿(中山道)

長野県・妻籠宿(中山道)

画像: 三重県・関宿(東海道)

三重県・関宿(東海道)

江戸幕府が街道沿いの交通の要地として認め、人馬の継立業務を命じた集落。宿場の役割は、
①公用人馬の調達
②公用文書の輸送
③旅行者の宿泊
の3つでした。
宿場の中心地では、宿駅としての施設、問屋場・本陣・脇本陣などが整えられ、幕府によって管理されました。旅籠屋や店屋などが並び、宿外れの木戸周辺に旅人をもてなす茶屋が置かれるのが一般的な配置でした。風情ある宿場を歩くと旅人気分になれますよ♪

関所(せきしょ)

画像: 箱根の関所(東海道)

箱根の関所(東海道)

主要道路や国境などに設置して、旅人の通行・物の移動・情報の行き来を取り締まり、管理した役所。江戸幕府は宿場や街道などのインフラ整備を進める一方、交通の要所に人馬の往来を妨げる施設を設置したのです。関所には番所が置かれ、武士や役人が駐在し、旅人の素性や荷物を検査しました。江戸時代には全国50数ヶ所に関所がありました。

茶屋(ちゃや)

画像: 甘酒茶屋(東海道)

甘酒茶屋(東海道)

旅人の宿泊を伴わない休憩場所。お茶とともに名物の団子やお餅を食べたり、昼食をとったりしました。宿はずれに数十軒あるのが普通で、宿内の旅人相手に商売をしていました。写真の甘酒茶屋は箱根の峠越えの途中にあり、今でも憩いの場となっています。

問屋場(といやば)

画像: 長野県・小野宿問屋場(伊那街道)

長野県・小野宿問屋場(伊那街道)

宿場の公用業務である継ぎ立てを行う事務所。幕府の公用旅行者のために宿泊場所や人馬を手配したり、公用文書や荷物などを運ぶ継飛脚を管理しました。問屋は宿場の名家や有力者が請け負った名誉職ですが、24時間営業で業務は多岐にわたり、忙しい割には報酬は少なかったそうです…。

旅籠屋(はたごや)

画像: 愛知県・豊川にある旅籠大黒屋(東海道)

愛知県・豊川にある旅籠大黒屋(東海道)

本陣や脇本陣が公人の宿であるのに対して、一般の旅人や公用でない武士が利用した、一泊二食付きの宿泊施設。江戸初期では木賃宿が主流でしたが、庶民の旅が盛んになる享保年間(1716~36年)以降は旅籠が主流になりました。平旅籠と、飯盛り女をおいた飯盛旅館の2種類ありました。宿場の規模で数はまちまちでした。宿泊代は上宿で200~300文、下宿で100~150文くらいだったそうです。1文=約12円とすると、一泊二食にしてはかなりリーズナブルですね!

本陣(ほんじん)

画像: 滋賀県・草津宿(東海道・中山道)

滋賀県・草津宿(東海道・中山道)

大名や旗本、幕府役人などの公人が宿泊所と指定された家。宿役人の問屋や村役人の名主などの居宅が指定されました。旅籠と違い、一般の客を泊めることは許されていませんでした。大名行列の行程の都合を考慮して指定されていたので、宿泊に使用する本陣と、小休止に使用する本陣とが存在しており、前後の宿場間が短い場合には本陣が置かれないこともありました。本陣は料金が決まっていませんでしたが、宿泊者は謝礼を支払いました。しかし対価として十分なものではなく、出費がかさんで没落する本陣もあったそうです…。

桝形(ますがた)

宿場の出入り口で、直角に折れ曲がった道。城中で敵の侵入を防ぐための構造が応用されました。また軍事目的とは別に、大名行列同士が宿内で鉢合わせしないための工夫でもありました。東海道の城下町では、掛川宿の「新町七曲がり」や岡崎宿の「二十七曲がり」などが有名です。

飯盛女(めしもりおんな)

宿場内の旅籠で、給仕や雑用をしていた遊女のこと。本来遊郭のみで雇用されていましたが、商売競争の激化により財政難に陥った旅籠の客集めの手段として、旅籠屋1軒あたり2名まで飯盛女をおくことが黙認されていました。飯盛女を目当てに宿場に集まる客も多く、それにより栄えた宿場も数多くありました。飯盛女は粗末に扱われ、亡くなった後投げ込み寺で無縁仏になることがほとんどでしたが、東海道藤沢宿や甲州街道府中宿には、飯盛女の供養されている墓があります。

脇本陣(わきほんじん)

画像: 岐阜県・太田脇本陣(中山道)

岐阜県・太田脇本陣(中山道)

公人が本陣だけに宿泊できないときに、予備にあてられた家。本陣と違い、一般客も宿泊することができました。本陣と作りは同じようになっていますが、格としては本陣より下がるので、大名同士が重なった場合、身分によっては本陣から脇本陣に移動させられることもあったようです。

役にたちましたか?

ツアー中、このほかにも様々な用語が出てきますが、ナビゲーターが詳しく解説いたします!あの言葉、なんだっけ…??というときにまたこのページにお越しください♪
皆様の街道あるきが実り多い旅になりますように…

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