皆様、こんにちは!クラブツーリズム中国五千年倶楽部を担当しております王と申します、どうぞよろしくお願い致します。
さて、今回からは、「名言が語る三国の英雄」と題して、三国志の英雄が話した名言、またはその英雄に纏わる名言を通じて、三国志を楽しんでいただきます。第9回目と第10回目は、魏の基礎を築いた曹操に関する名言をいくつかご紹介いたします。
曹操は悪者?
ご存知の通り、小説の『三国志演義』は史書の『正史・三国志』に基づいて、フィクションも加わり書かれた歴史小説ですね。この『正史・三国志』を書いたのが元々は蜀の文官で、蜀が魏に滅ぼされた後に史料の編纂(へんさん)に務めた陳寿(ちんじゅ)です。陳寿の父親が諸葛孔明の初回の北伐(魏を攻める戦いの総称)に参加し、先陣を担う馬謖(ばしゅく 武将)の参謀でした。しかし、馬謖が諸葛孔明の指示に逆らって孤立した高い丘に陣屋を設けたことで、魏に囲まれて惨敗し、肝心な街亭(がいてい 現在の甘粛省・天水付近)を失い、初回の北伐の失敗を招きました。その後、馬謖が斬首され、陳寿の父親も連帯責任で髪の毛を剃る処罰を受け退役されてしまい、帰郷した後に陳寿が生まれました。
こういった背景もあり、陳寿の書いた『正史・三国志』は、歴史書でありながらも少なからず「蜀に偏る』色合いがあると言われています。また、小説の『三国志演義』の著者・羅貫中(らかんちゅう 約1330~1400年)本人も、皇帝に忠誠を尽くすことが美徳とされる封建社会(元末~明初)の作家としての時代的限界もあり、漢王朝を覆した魏、つまり曹操が「反逆者」、漢王朝を復興しようとする劉備と諸葛孔明が「正統派」として小説を書いたとも言われています。
では、果たして曹操は本当に悪者なのでしょうか、厳選した名言から曹操の「真相」を探ってみましょう。
わしが天下の人に背くとも、天下の人には背きはさせない
~寧可我負天下人、不可天下人負我
三国史の最初の部分に遡りますが、董卓(とうたく 首相レベルの大臣)が天下無敵の呂布を子分にしてから後漢の皇帝を変え、ますますやり放題の独り天下の有り様でした。
不満を抱える大臣の王允(おういん)がある日、誕生日祝いという口実で何人かの旧臣を自宅に招きました。宴会中に、王允が大泣きして董卓への不満を口にしたら、「計略を考えようもせず、ただ泣くだけでは董卓を殺せるのか?!」と、一人せせら笑いながら立ちあがりました。首都洛陽の守衛隊長(警察トップ)の曹操でした。曹操は自ら董卓を暗殺すると話し、賛同した王允から家宝の七星宝刀を受け取って早速董卓の邸宅に向かいました。
普段の曹操は董卓に媚びる振りをしていたので、何の問題もなくスムーズに董卓の寝室に入ることができました。ちょうど董卓が呂布と話をしており、冗談半分で「孟徳(もうとく 曹操の字)、遅いぞ!」と曹操に声をかけました。「自分の馬は歳のせいで足が遅くてすみません」と曹操が返事したら、董卓は呂布に良い馬を一頭選んできて曹操にあげるようと指示しました。呂布が出た後、董卓がベッドで横になり曹操ととりとめもない話をしている内にうとうとしてきました。「今だ!」と思った曹操が鞘から刀を抜き出し董卓を刺そうとしたところ、残念ながら刀が鏡に反射され、その光で董卓はパっと目覚めてしまいました。「珍しい宝刀を手に入れたので、董卓様に贈ろうと思いまして...」と曹操が機転利いてごまかしました。ちょうどその時、呂布が馬を引いてきたので、「では、早速乗ってみてくる!」と曹操は言い残し、馬に乗ってそのまま洛陽城を出て慌てて故郷へ逃げ去りました。
一方、宝刀を贈るにしても鞘から抜き出す必要はないと呂布が疑い、そして馬の試乗に出た曹操も戻ってこないので、董卓はやっと曹操が自分を暗殺しに来たと気づきました。董卓がすぐに曹操の絵入りの指名手配ビラを各地に貼らせ、捕まえた者には賞金を出すと命じました。
さて、逃亡する曹操がついに途中の中牟(ちゅうむ 現在の河南省・中牟)で捕まり投獄されてしまいました。
夜中に、中牟の太守(長官)の陳宮(ちんきゅう)が牢獄から曹操を引き出し、董卓を暗殺する理由を曹操に聞きました。「代々漢王朝の俸禄(ほうろく 給料)をもらってきたもの。国の害である董卓を殺そうと試みたが, 運悪く失敗してしまった。故郷に戻って義兵を募って董卓を倒すことを図る」と曹操が答えました。陳宮は、「まことに忠義の人だ」と曹操を心底から感服し、長官の職を捨てて曹操についていくことを決心し、二人が夜明けを待たず一緒に中牟城を後にしました。
馬を疾走させる陳宮と曹操の二人ですが、三日が経った道中で日も暮れたので、曹操の父親の知人である呂伯奢(りょはくしゃ)の家で一晩宿を借りることにしました。すでに曹操が指名手配になったことが周知されている中、呂伯奢は曹操の行動を賞賛し、曹操を助けてくれた陳宮にもお礼を申して、温かく二人を迎え入れました。そして、せっかくなので隣の村に美味しいお酒でも買ってくると呂伯奢がロバに乗って家を出ました。
しばらくしたら、奥庭から「縛ってから殺そうか?どこに刀を入れた方が良い?」と、人の会話が曹操と陳宮の耳に入りました。「まさか呂伯奢は本当は俺ら二人を殺すつもりだったのか!」と思った二人がお互いに目を見合い、曹操は迷いもなく剣を抜き出して、庭に飛び出てよくも見ないまま一気にそこにいる計8人を殺しました。が、庭の片隅に四足が縛られいる豚が目に入り、曹操と陳宮はやっと豚を殺そうとする呂伯奢の家族を間違えて殺してしまったことに気付きました。
申し訳ないことをしてしまったと思った二人が馬に跨り早速逃げますが、村を出たすぐにロバに乗って戻ってきた呂伯奢に会いました。「家族に豚を殺させご馳走でも作り、美味しいお酒も買ってきたのにもう行くのか?」と残念そうに呂伯奢が言いますが、曹操は「追われる身なのでやはり早く出た方が良い」とだけ答えました。
曹操と陳宮の二人が引き続き前へ進みますが、数歩を出たところで突然曹操は馬を止めて振り返り、「あそこの人は誰だ?」と呂伯奢に声をかけました。呂伯奢が曹操の指す方向へ振り向いた瞬間、曹操は剣を抜き出して呂伯奢をロバから斬り落としました。びっくりした陳宮は先が間違えて人を殺したばかりなのに、また呂伯奢まで殺すのが何故だと曹操をなじりますが、「呂伯奢は家に戻って家族が殺されたのを見たら、きっと人を集めて俺らを追いかけてくる」と曹操。「とはいえ、罪のない人を承知の上殺すのが不義理ではないか?!」と陳宮が問い詰めたら、曹操は申し訳ない顔を一瞬見せたものの、「わしが天下の人に背くとも、天下の人には背きはさせない!」と静かに言いました。
その日の夜、陳宮はこのような残忍な人に仕えるべきではないと思い、寝た曹操を捨てて一人去っていき、後に呂布に仕えることになりました。一方の曹操はその後、陳留(ちんりゅう 現在の河南省開封市)で父親と合流し、家財を尽くして義兵を集め、軍需品などを調達し、地方の諸侯たちに一緒に董卓を討伐しようと呼びかけました。(※『三国志演義』では、曹操が偽の勅書を書き、各地方の諸侯に呼びかけたと書かれています)
曹操の呼びかけで集まった18人の諸侯は、董卓を洛陽から長安へと遷都まで追い詰められたものの、倒すまではできなかったのですね。その後、諸侯たちが各自の拠点に戻りそれぞれの地盤拡大に専念しましたが、曹操だけ長安まで追いかけて戦い続けました。しかしながら、「わしが天下の人に背くとも、天下の人には背きはさせない!」の一言が曹操の名セリフとして世間に広がり、曹操は「奸雄」(かんゆう 悪知恵の野心家)という悪者のレッテルが貼られてしまいました。
お前の家族は、わしが面倒を見る
~汝妻子、吾養之
「奸雄」曹操の腹黒事例として、大軍閥の袁述(えんじゅつ)と対決した時、無罪の軍需官を殺した物語も有名です。
まず物語の背景を簡単に話しておきます。190年、曹操の「董卓の討伐」の呼びかけで洛陽にやってきた諸侯の一人の孫堅(呉の孫権の父親)は、董卓と皇帝が去った後の王宮に入り、秦の始皇帝から代々の皇帝に伝わる玉璽(ぎょくじ 皇帝の印)を手に入れました。翌年、孫堅が戦死した後、玉璽が彼の後を継いだ長男の孫策がずっと持っていました。当時の孫策はまだ小さく力もないため、大軍閥の袁術に身を寄せることとなりました。大きくなった孫策は、玉璽を「担保」として袁術から兵士と馬を「借り」て独立し、父親の覇業を復興し始めたのです。一方、玉璽を得た袁術は、早速寿春(じゅしゅん 現在の安徽省・寿県)にて、長年夢を見てきた皇帝に即位すると自ら宣言しました。
そこで、後漢の献帝の「命令」に従い、197年、曹操が17万の大軍を率いて袁術を攻めてきました。
しかし、戦いが一カ月余り経っても決着がつかず、とうとう食糧も底ついてしまいそうなところで曹操は軍需官の王垕(おうこう)を呼びました。「残った食糧は三日分しかない」と王垕から報告を聞いた曹操は、「ならば、普段の半分の量で配れ」と命じました。そうすれば兵士からの不満が続出するのではないかと心配する王垕に、「心配無用、わしには妙案がある!」と曹操が髭をしごいて安心させました。
さて、王垕は曹操の命令に従って半分の量の食糧を配給したら、想像した通りたった一日だけでもう不満が爆発し、ついに曹操に直接文句を言う人も出ました。曹操が王垕を呼び、まず小さな声で「お前からモノを借りたい、ケチはしないでくれ」と言いました。「何だろう?」と聞く王垕の耳に、「お前の家族は、わしが面倒を見る、首をくれ」と曹操は吹き込んだ後、態度を一転して王垕を指さしながら、「お前が食糧をこっそり売って自分のポケットを膨らまし、兵士の食糧をケチった」と怒声で王垕を罵りました。王垕に物申す時間も与えず、曹操は素早く手下に彼を斬首させ晒し首にしました。
その後、曹操が将校兵士らを集めてこう言いました。「王垕の不正で我が軍の食糧は残り僅かとなった。彼を既に斬首したが、お腹いっぱい食えるよう、全員一丸となって袁術を打ち破ろうじゃないか?!」 曹操は、一人の軍需官を犠牲にしたことで、兵士たちに自分たちが背水の陣さながらの状況にいることを周知させ、そして兵士たちの軍需官に対する怒りを打倒袁術の原動力に見事に変えました。翌日、戦場で自ら石を運んだり率先して戦う曹操の姿に兵士たちが感動され、曹操軍全員が躍起になり、一気に寿春城を攻め落としました。
指名手配の曹操を温かくもてなそうとした呂伯奢、そして軍需官の王垕、罪のない人を承知の上で殺すのは許せない行動ですが、その反面、「天下を治めること」を志にする曹操は、即決即行、ミスしてもぐずぐずせず前向きに考える、大局の為なら一人二人を犠牲にでもする、という、カリスマとして持つべき「冷血さ」と「俯瞰(ふかん)の目」があったとも言えますね。
曹操と言ったら、曹操が来た
~説曹操、曹操到
さて、董卓が献帝を連れて洛陽から長安へ遷都してから、相変わらず横行の悪政治を続けていました。7回目のブログに出た話ですが、大臣の王允が絶世の美女・貂蝉(ちょうせん)を利用し、董卓と呂布を反間させて、董卓はやっと呂布の手に殺されました。しかし、一難去ってまた一難、今度は董卓の旧部下の李傕(りかく)と郭汜(かくし)(※以降は李・郭と表記)が仇討ちに長安にやってきました。王允が城門から飛び降り自殺し、長安も李・郭の二人に占領され、後漢の献帝は再び人に操られる状況に陥ってしまいました。この局面を打破しようと思った大臣の楊彪(ようひょう ※)は李・郭に反間の計を巡らしますが、逆に献帝が奪い合われる紛争を招いてしまいました。仕方なく、献帝は慌てて旧都の洛陽に逃げて避難しますが、まともな住まいも無く満腹どころか腐った肉しか食べ物がない悲惨な状況でした。※楊彪:第二回のブログで出た鶏肋(けいろく)の物語の主人公・楊修の父親
一方、その間の曹操は、「黄巾の乱」(後漢末に起きた農民の蜂起)の残存勢力を鎮めた業績で鎮東将軍の要職に着き、更に、黄巾の捕虜から精鋭兵を選び、兗州(えんしゅう 現在の河南省東北部から山東省の南西部)を拠点にして、勢力が日に日に強くなっていきます。
洛陽で献帝と一緒に避難する楊彪は、「董卓の暗殺から、18諸侯を呼びかけて董卓を討伐、その後また黄巾の残党を駆除するなど、漢王朝のために身を挺して頑張っている曹操こそが、李・郭に抵抗でき、皇帝の安全を守ってくれる人」と思い、献帝に曹操に助けを命じようと進言しました。ところが、まだ献帝は曹操宛の救援依頼の勅書を出した間もないですが、すでに李・郭の大軍が洛陽に迫ってきたのです。手に汗を握り、居ても立っても居られなくなったそんな献帝のところに、なんと「曹操将軍はすでに救援の兵を出してくれて、李・郭たちが犬のように山へ追い払われた」との朗報が届きました。思いがけない幸運が降臨したと思った献帝は、「曹操はまさしく社稷(しゃしょく、国の意味)を重んじる忠臣だ」と安堵の息を混じりながら賞賛し、宙ぶらりんになっていた心がこれでやっと落ち着きました。この物語から、「曹操のことを言ったら、曹操が来た」、つまり「困っている時に一番望んでいた助けが舞い降りてきた」という意味の言葉が生まれました。
実権もなく窮地に陥った献帝をただ傍観する群雄が多い中、なぜ曹操だけ救援に駆けつけたのでしょうか。それは、①後漢の献帝を救えば、人々の心を掴める/民心を得られる。②天子を傍に置けば、後漢王朝の人材・軍事・政治などの資源を利用できる と曹操が思ったのです。
つまり、曹操は他のどの諸侯や軍閥よりも、「避難する献帝」を大きなチャンスと捉え、それを逃さずしっかりと掴んだのですね。確かに、曹操は献帝を迎え入れてから、自分の拠点である許都(きょと、現在の河南省・許昌)に都を移させ、それ以降、「天子を持って諸侯を命ずる」と、名実ともに一番の実力者となりましたね。
また、「待ち望んだ助けが訪れてきた」という意味の「曹操のことを言ったら、曹操が来た」が、後に更にバージョンアップもされました。それは、「曹操と言ったら曹操は来たが、気づかずすれ違ってしまえば、ただ世間に笑われて終わり」<説曹操、曹操到、当面錯過、岂不好笑>という名言で、「待ち望んだチャンスが来ても、気づかず逃してしまえば、ただの笑いものになる」という意味です。せっかくなので、この名言の由来となった物語をご紹介します。
前述した通り、曹操が黄巾の残存勢力を駆除し、兗州(えんしゅう 現在の河南省東北部から山東省の南西部)を治めました。ますます力強くなった曹操が兗州で一緒に暮らそうと、琅琊(ろうが 現在の山東省・青島周辺)にいる父親・曹嵩(そうすう)を呼びました。曹嵩一行が兗州に向かう道中の町、徐州(じょしゅう)で小休憩した後、再び旅路に着きますが、徐州の長官が張闓(ちょうがい 武将)にその護送を命じました。しかし、なんとこの張闓は元黄巾の人で、「黄巾の乱」の鎮圧に大活躍した曹操のことを日頃に恨んでおり、徐州を出たところで曹操の父親とその家族全員を殺してしまいました。曹操は仇討ちに自ら軍を率いて徐州を攻めますが、その隙間に兗州に属する濮陽(ぼくよう 現在の河南省濮陽市)など多くの町が呂布に奪い取られてしまいました。仕方なく曹操は一旦父親の仇討ちを棚に置き、引き返って濮陽に居座る呂布を攻撃することにしました。
呂布の軍師・陳宮(一番目の名言に出た人物、董卓暗殺で失敗し指名手配された曹操を救出した人)が計を巡らして、曹操宛に「呂布は不在しており、夜間に銅鑼(どら)の音が合図で城門を開けるので濮陽城内に入りたまえ」と偽りの降伏書を送りました。曹操は大喜びし、軍を率いて城内に入った途端、あちらこちら火が燃え立ち、待ち伏せていた呂布軍に囲い攻められる羽目に遭います。一方の呂布は赤兎馬(せきとば)に跨り画劇(がげき 武器)を引っ提げ、城内を駆け回って曹操を探しますが、なんとばったりと逃走の曹操と対面しました。しかし、暗い夜、しかも衣服も焼け破った目の前の人がまさか曹操だと呂布は思いもつかず、逆に曹操に「曹操はどこだ?」と問いかけたのです。ドキドキハラハラの曹操は腕を高く上げて顔半分を隠しながら、逆方向を指して「あの黄色い馬に乗ってる人だ」と答えました。呂布が黄色い馬を追いかけて行くのを見て、曹操はやっと冷や汗を拭いて一息し、その後なんとか無事に濮陽城から脱出できました。
この物語から、「曹操と言ったら曹操は来たが、気づかずすれ違ってしまえば、ただ世間に笑われて終わり」という言葉が生まれました。つまり、呂布にとっては、絶好のチャンスが目の前にあったのですが、それに気づかず逃してしまいました。呂布は天下無敵と言うども、所詮無知の一匹夫(ひっぷ)に過ぎない、という、呂布をからかうこの言葉は、チャンスだと見抜かず逃してしまった時や、また逃してしまった人を皮肉する時に今も使われています。
ちなみに、今の中国では、「曹操のことを言ったら、曹操が来た」という言葉は、元々の意味の他、「噂をすれば影」という意味としても使われています。
クイズ
最初の名言に出た董卓暗殺の物語に、曹操に家宝の七星宝刀を提供した人と、第7回のブログに出た絶世の美女・貂蝉(ちょうせん)を利用し「連環の美人の計」を巡らした人が同じ人物です。さて、この人物の名前は?
正解でしたか?今回は曹操の腹黒で冷血な一面と、チャンスを見抜く「慧眼」(けいがん)を持つ一面が分かる3つの名言をご紹介いたしました。次回は「名言が語る三国の英雄~曹操編②」、引き続き曹操の「真相」に迫ります。次回の クラブログ をお楽しみください。
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第3回「お酒が造った三国志 一杯目」
第4回「お酒が造った三国志 二杯目」
第5回「名馬が踏み開いた三国への道①」
第6回「名馬が踏み開いた三国への道②」
第7回「三国志を美しくした女性たち①」
第8回「三国志を美しくした女性たち②」
第9回「名言が語る三国志 曹操編①」
第10回「名言が語る三国志 曹操編②」
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