日本人がこよなく愛するリゾート・ハワイ。知っているようで知らないハワイの横顔や歴史に迫る本シリーズ。第3回目は、ワイキキのメインストリート「カラカウア通り」の名前の由来となっているハワイ王国第7代国王 デイビッド・カラカウアについてご紹介します。歴史上初めて日本を訪れた外国の君主であり、アメリカ唯一の宮殿・イオラニ・パレスを建設した王としても有名です。メリーモナークと呼ばれた陽気な王様とハワイ王国の崩壊 へのカウントダウンを旅していきます。

日常から離れて南の島へ旅に出る。南国ハワイでの思い出は照りつける太陽の強さに輝いて、色濃く鮮やかな記憶となって大切にしまわれていきます。

(撮影:YUKO)

ハワイの景色を輝かせるのは、日本の3倍とも5倍とも言われるまっすぐ降り注ぐ力強い太陽の日差し。しばらくハワイに滞在して日本に帰ると、晴れの日さえ少し曇っているかのように感じられる程です。アロハシャツやムームー、ビビッドなカラーのサンドレスが映えるのもこの日差しがあってこそ。ハワイで着ていたドレスが帰ってくるとなぜかしっくりこないのもそんな理由です。

さぁ楽園ハワイの隠された歴史を追う旅、今日もお届けしていきましょう。

担当はいつもの通りハワイ大学卒業生・ハワイ大好き添乗員・YUKOです。

Traveling without moving!

この旅にはパスポートも、ESTAも、重たいスーツケースも、PCR検査陰性証明書も必要ありません。必要なのは皆様の想像力だけ。それでは今日も出発しましょう!

今回の旅のキーワードは ハワイ王国第7代国王 「カラカウア」

ハワイを訪れたことがある方は、この名前に聞き覚えがあるのではないでしょうか?

リゾートハワイの最も華やかなイメージを担っているワイキキのメインストリート「カラカウア大通り」。

(撮影:YUKO)

キラキラと輝くビーチと、高級ブティックが立ち並ぶラグジュアリーローでのショッピング、世界各国の美食が集うレストラン、オーシャンフロントのビューが楽しめるおしゃれで快適なホテル、ナイトライフを楽しむビーチサイドバーやクラブと、「人生を楽しむためのもの」はなんでも揃うこの通りはこの王様の名前が由来となっています

シェラトンワイキキホテルのインフィニティ―プール クラブツーリズムでも人気のホテル(撮影:YUKO)

繰り返しハワイを訪れるリピーターの方々が口を揃えるのは、ハワイはリゾート地として「最高のバランス」だということ。

ハリーウィンストンにルイヴィトン、シャネルなど高級ブティックが建ち並ぶ通りの目の前にビーチが広がり、水着やサーフボードを抱えて歩いていても違和感はありません。海に浸かって目の前を見上げればダイヤモンドヘッドやコウラウ山脈などの山並みも楽しめます。

ハイアット リージェンシー ワイキキビーチホテルの部屋からの眺め 山側は夜景が美しい (撮影:YUKO)

「バランスの良いリゾート」そんなハワイの評価はまさにこのカラカウア通りが一手に担っているといっても過言ではありません。

(撮影:YUKO)

(撮影:YUKO)

2016年にはジャズの名門「Blue Note」もハワイに進出 Jazzもハワイの空気にとても良く溶け合います
(撮影:YUKO)

ハワイの大石内蔵助? 内に秘める戦略家・カラカウア王

ハワイの目抜き通りに名前が冠された「カラカウア王」。名前の意味は「闘いの日」というハワイ語です。

カメハメハと同じく、この人も戦国武将のような猛々しい王様だったの?

いいえ、この勇ましい名前とは裏腹に、このカラカウア王こそ『ハメハメハ大王の歌』のような南の島ののんびりとした王様だったんです。

でも実はこのカラカウア王、昼行燈と呼ばれ京都のお茶屋で遊びほうけるふりをして討入りの謀をめぐらした大石内蔵助のように、実は壮大な夢を胸に秘めた戦略家でもあったようなんです。

太平洋の覇権争いで西洋の国々から狙われたハワイ王国

カメハメハ1世の時代以降、ハワイは次々とやってきた西洋諸国からの干渉、西欧人たちの政治や経済実質的な支配、人口の減少に悩まされます。

太平洋にぽっかりと浮かぶハワイは貿易や軍事の要所として各国から狙われ、英米仏の三すくみ状態。一度などイギリス海軍のジョージ・ポーレット卿がハワイの土地を巡るいざこざから勝手にハワイをイギリス領にしてしまったり、フランスのルイ・トロメラン(Louis Tromelin)提督がフリーゲート艦でやってきてホノルル港や政府の建物などを破壊し不利な貿易条約を押し付けられたりしたこともありました。

どちらも30年間とハワイ王国で最も長く在位していたカメハメハ3世の治世の出来事です。

西洋からの伝染病で人口の80%が減少

ハワイ王国は100年経たずして崩壊してしまいますが、その間即位した君主は8人。多くの王が短い在位期間で亡くなっています。

長い間世界で最も隔離された太平洋のど真ん中の島に住んでいたハワイの人々は伝染病に全く免疫がありませんでした。そして西洋からもたらされたアルコールも王たちの寿命を縮める要因の一つになったようです。

ハワイ島のカイルア桟橋にあるカメハメハ1世晩年の住居・カマカホヌ カメハメハ2世もここで教育を受けました (撮影:YUKO)

偉大なるカメハメハ1世の王冠を次に受け継いだカメハメハ2世は、ロンドンを訪れた時にはしかと思われる病気で后と共に他界。在位は5年余りでした。

カメハメハの孫の代となったカメハメハ4世5世はそれぞれ9年、子供たちも病に倒れカメハメハの直系が絶えた後、選挙で選ばれたルナリオ王は肺結核を患いわずか1年余りでこの世を去ってしまいます。

王だけではなく、カメハメハ1世の時代に30万ほどいたと言われる純血のハワイアンたちも、西欧人が持ち込んだコレラやインフルエンザ、天然痘などの伝染病で出生率より死亡率の方が上回る年が続き、1866年の国勢調査ではネイティブハワイアンの数は58,765まで減少してしまいました。

人口の80%減?免疫って大切なんだね

ハワイ王国 "終わりの始まり" カプ制度の廃止

ハワイ王国終焉へのカウントダウンは、カメハメハ1世がこの世を去ってすぐに始まってしまいました。

22歳の若さで即位したカメハメハ2世はそれまでハワイの宗教であり社会的秩序の基盤であった様々な禁忌を定めたカプ(Kapu)制度を廃止します。

カメハメハ1世の最も寵愛を受けた后の一人カアフマヌKaʻahumanuが、2世と3世の摂政(Kuhina Nui)となり政治の実権を握ったため、男性と一緒の食事を禁止するなど女性に様々な制限を強いるカプ制度が邪魔になったことと、カフナ(神官)やヘイアウ(神殿)を潰すことでカリスマ性のない幼い王たちの権力を守ろうとしたのがその理由です。

えっ?でもその時代の王様って王権神授説に基づいていたんじゃないの?

そうなんです。ハワイ独自の宗教を破壊することは、王の地位を危うくすることにもつながります。

それなのに権力を握ったカアフマヌという女性。ハワイ独自の文化を喪失させる失策を数々やらかしています

神の存在は否定され、カフナは拒絶され、ヘイアウは破壊され、宗教的な空白が生じていたハワイにタイミング良くやって来たのはキリスト教の宣教師たち。

1820年に北米最初の海外伝道組織American Board of Commissioners for Foreign Missions
(ABCFM)から派遣されたプロテスタントの宣教師ハイラム・ビンガム(HairamBingham)エイサ・サーストン(Asa Thurston)がハワイ島に到着。なんと王自らがキリスト教に改宗し、ハワイ王国はキリスト教国へと変わっていきます。

余談ですがハイラム・ビンガムの孫、ハイラム・ビンガム3世は、行ってみたい絶景スポットで度々1位にランクインする絶景の「空中都市」「マチュ・ピチュ」を発見した有名な探検家です。

マチュピチュ遺跡入口まで急カーブを繰り返しながら標高差400mを上っていく道を、ハイラム・ビンガムロードと呼んでいます(イメージ)

サーストンという名前も後編のためにちょっと憶えていてくださいね。

宣教師がもたらしたものとハワイの文化の喪失

どんなことにも功罪はあります。

宣教師たちは、すぐにハワイ語を学び、それを文字に起こし、本にしました。ネイティブハワイアンの大人たちも学校に通い文字を覚えたので、1820年には0%だった識字率は1860年には95%を超え、ハワイは世界で最も識字率の高い国の一つとなったのです。

1834年には最初のハワイ語新聞、KA LAMA HAWAII (ラマ ハワイ)が発行されました。

一方で、チャント(chant)と呼ばれる口伝で伝えられていた歴史や神話、そしてその正確な発音の多くが失われてしまいます。

(撮影:YUKO)

またチャントを身体的に表現し、神に捧げる踊りであったフラも宣教師から「忌まわしきもの」として見られ公開が禁止、カメハメハ一世も得意だったというサーフィンも同じく禁止されてしまいます。

やれやれ、「白人の責務」ってわけですか

よく知ってますね。世界史を取ってましたか?
ラドヤード・キプリング(Rudyard Kipling)「白人の責務(The White Man's Burden)」の詩を書き、その言葉が西洋人の植民地支配を正当化する言葉になったのは、もう少しだけ後の時代なのですが、様々な書物の記述などからこの時代の宣教師たちが「未開の野蛮人を文明化させ、キリスト教の福音を伝える使命」というような意識を持っていたのは間違いなさそうです。

日本より一足早く専制君主国から立憲君主国へ

ネイティブハワイアンの人口が減り、独自の文化的背景をどんどん失い、貿易により国交が進むと加速度的に西洋化していくハワイ。

人権宣言(a declaration of human rights)にカメハメハ3世が署名したのは1839年6月7日1840年10月8日には最初の憲法が発布され、専制君主国から立憲君主国へと変貌を遂げます。

一婦多妻制も廃止され、一夫一婦制となりました。

ちなみに大日本帝国憲法が発布されたのは1890年(明治23年)ですからハワイは日本より50年も前に憲法を持っていたことになります。

でもそのおかげで欧米諸国の植民地にされなくてすんだんじゃないの?

確かにそうですね。諸外国に狙われ文明国へと変貌を急いだ明治維新のように、文明国となったハワイは全権大使をアメリカ、イギリス、フランスに派遣。

1842年にアメリカから、1843年にはイギリスとフランスから「独立国」として承認を得ることに成功します。

ハワイの4分の3の土地が外国人の所有に

土地の改革もハワイの歴史の一大事件です。1850年のクレアナ法(The Kuleana Act)により個人や外国人の土地所有が認められるようになりましたが、申し立てを行うには調査費用などが必要でそのお金を持たず、土地所有の概念がなかった一般のハワイアンの人々は土地を所有できませんでした。

対外債務を抱えていたハワイ政府は土地売却によって外債を補填するようになり、1862年までの12年の間にハワイ諸島全体の約4分の3に達する面積の土地が外国人所有となってしまったのです。

なんだかもう聞いてるだけでハワイアンの人々が気の毒...

王室に残されたワイキキの土地 カラカウア通りの顔・ロイヤル・ハワイアン・センター 現在も王家の財産を相続したパウアヒが創設したビショップ財団が管理しています(撮影:YUKO)

カラカウアの経済政策 互恵条約で王国の収入 722%増

こんな風に西洋化が進み、植民地化は逃れたハワイですが、常に米国からの併合の恐怖にさらされていました。

そんなハワイの状況を変えようと立ち上がったのが、お待たせしましたカラカウアです。

まずは貿易。1874年の11月にハワイ国王として初めて米国・ワシントンD.Cを訪れたカラカウア。
グラント大統領(Ulysses Simpson Grant)に会い、ハワイからの砂糖に対する高額の輸入関税を撤廃しハワイの経済を安定させるため1875年に互恵条約(Reciprocity Treaty of 1875)を結びます。

この条約によってハワイのサトウキビプランテーションは12,000エーカー(49 k㎡)から125,000エーカー(510k㎡)と約10倍に拡大しました。

東京23区の総面積が626k㎡なのでかなりの広さです。ところが、この互恵条約、ハワイアンの人々からはかなり不評を買ってしまいます。

どうして?砂糖で儲ければ国が繁栄するでしょ?

もちろんこの条約は、米国からの投資を呼び込み、王国の収入を722%増にするというものすごい経済効果をもたらしました。

でも、この互恵条約の第2条には一つ条件が付いていて、それはパールハーバー(真珠湾)の独占的使用を米国に与えるというものだったんです。

国の利益をアメリカに売り渡したとしてカラカウアは集中砲火を浴びてしまいます。おまけに条約の第4条では、互恵条約を他国と結ぶことを禁じていて、ハワイをぬかりなく縛り付けるアメリカ。

歴史研究家の間では、この互恵条約こそ、アメリカのハワイ併合の布石となったとみる向きが多いのです。

スターオブホノルルのサンセントディナークルーズ クラブツーリズムの多くのツアーでご案内しています
(撮影:YUKO)

世界で初めて「地球一周の旅」に出たカラカウア王

互恵条約を締結したカラカウア王は「世界一周の旅」に出ると宣言します。

王子や王族ではなく一国の国王が、まだ船しかなかった時代に、一年近くも国を留守にするというのは、なかなか思い切った決断でした。

ギネスブックがこの当時あれば、世界で初めて世界一周をした王として永遠に記録されていたことでしょう。しかも王国の船でも軍艦でもなく、乗り合いの客船に乗って随行員はたった3人のお忍び旅です。

ところで長い日本の歴史上、日本が初めて迎えた外国の君主は誰かご存じですか?

ここで、この質問ってことは....

そう。ハワイ王国の第7代の国王・カラカウアこそが日本史に名を刻むその栄誉を誇っているのです。ただこの件は、なぜか日本の歴史からきれいさっぱり忘れ去られているので、ハワイ好きの方でも知らない方が多いと思います。

お忍び旅だし、誰も知らないうちに、そっと来てそっと帰ったからなんじゃないの?

カラカウア王ご一行はそのつもりでした。ハワイ王国から日本へは何も知らせていなかったのです。

サンフランシスコに立ち寄ってから最初の訪問国、日本に向かいます。

日本の「おもてなし」にカラカウア感涙

王を乗せた客船オーシャニック号(The Oceanic)横浜港に入る際、船長がハワイ王国の王旗をあげましょうと勧めました。

でも、随行していた国務大臣のウィリアム・アームストロング(William Nevins Armstrong)「日本の人々はハワイという国さえ知らないだろうし、誰も気づいてくれなかったらカラカウア王の面目が丸つぶれになるのでやめましょう」と止めたそうです。

ところが、港に停泊していた日英仏露の13隻もの軍艦の前を通ったとたん、それぞれの船から21発、合計273発もの礼砲が轟き、甲板にずらりと整列した軍人たちから最敬礼を受けたため、腰を抜かすほど驚いてしまいます。中にはハワイ王国の王旗を掲げる船もあったとか。

日本ではホテルにでも滞在しようと思っていたカラカウア一行でしたが、オーシャニック号が錨を下すとすぐさま明治天皇の勅使が乗ったボートが迎えにやってきます。さらに、港に上陸する際にはカラカウア王が作詞したハワイ王国国歌(現在はハワイ州歌)である「ハワイポノイ(Hawaiʻi Ponoʻī)」が軍楽隊により演奏され、カラカウアは目に涙がにじむほど感激したそうです。

実は、カラカウア王がサンフランシスコに寄港した際、サンフランシスコ駐在の日本領事「ハワイ国王が日本を訪問する予定」だと電報を打ち、日本駐在のアメリカ総領事がハワイで宣教師をしていたことのある女性からハワイポノイの楽譜を手に入れ軍楽隊に渡したのだと後でアームストロングに種明かしをしています。

港はこの時、ハワイ国王を一目みようと黒山の人だかりでした。

カラカウア王のおもてなし予算1億円超え

天皇の賓客として迎えられたカラカウア。日本政府は1万円の予算で接待費を収めようとしていたのですが、結果的に追加費用6,600円を追加で計上しました。

一般の人の給料が当時10円~20円だったことを考えると現在の貨幣価値では約1億6千万円ほどの金額を使ってカラカウア王を「」したことになります。

この日本での盛大で豪華なおもてなしぶりは国務大臣のアームストロングが後に出版した「Around the World with a King」<日本語版『カラカウア王のニッポン仰天旅行記』ウィリアム・アームストロング (著), 荒俣 宏 (翻訳), 樋口 あやこ (翻訳) 小学館文庫>に詳細に記されています。

アームストロングのちょっと皮肉を込めたユーモアたっぷりの筆で描かれた明治維新の日本のおもてなしと、カラカウア王の憎めない人柄が楽しくて、ページをめくる手が止まらなくなる本です。

カラカウア王の日本での写真など資料もたっぷり。興味のある方は是非読んでみてくださいね。カラカウア王と一緒に外国人の目でワクワクしながら明治の日本へタイムスリップできますよ。

カラカウア王が行方不明!? 明治天皇との密会

日本にいる間は、浜離宮にあった延遼館に滞在したカラカウア。この延遼館は長らく鎖国をしていた日本が外国からの国賓を迎えるにあたってから急遽整備した西洋式の迎賓施設です。明治政府最初の国賓は英国・ヴィクトリア女王の第2王子エディンバラ公でした。

明治天皇との公式の会見や、宮中の晩餐会、大勲位菊花大綬章の受勲、東京見物など3日の予定東京に10日間、京都や長崎など合わせて19日間に延長して滞在したカラカウア。

実はたった一日行方不明になったと大騒ぎになる事件がありました。

お付きの人間には誰にも言わず、こっそりと明治天皇に会いに行っていたんです。

会見の内容は3つ

一つはこの旅の表向きの理由でもある「人口が減ったハワイの労働人口を確保するためのハワイへの移民の要請」。これは問題ありません。こっそり会いに行く必要もないように思われます。

ところが、2つ目と3つ目の仰天の内容こそ、カラカウアが胸に秘めていたこの旅の目的でした。

日本の親王をハワイ王国の後継者に 

びっくり仰天その1は、ハワイ王家と日本の皇室との縁談。

子供のいなかったカラカウア王は、妹リケリケ(Likelike)の娘で当時まだ5歳だったヴィクトリア·カイウラニ王女を当時15歳だった明治天皇の縁戚の親王・山階宮定魔王(後の東伏見宮依仁親王)に嫁がせたいと提案したということです。

ワイキキのPrincess Kaʻiulani Triangle Parkに建つカイウラニ王女の像 (撮影:YUKO)

リケリケの夫はスコットランド人のビジネスマン、アーチボールド・クレッグホーン(Archibald Scott Cleghorn)。ハーフのカイウラニ王女は美しさと聡明さで有名でした。

ハワイ語で「涼しい場所」を意味するカイウラニのお屋敷があったアイナハウ(Ainahau)は、現在クラブツーリズムのツアーでもビーチにもショッピングにも近いアクセス抜群として人気の高いシェラトン・プリンセス・カイウラニ・ホテルとなっています。

シェラトン・プリンセス・カイウラニ・ホテルのライトアップされたプール プールを抜けると目の前はカラカウア通りです (撮影:YUKO)

日本滞在中、釣りの相手などを務めた山階宮定魔王をたいへん気に入り愛用の温度計を宮に贈ったカラカウア。

実はこの縁談こそ、カラカウアの戦略的思考の現れ。カラカウアの随行者はみな白人。世界一周を楽しんでいると見せかけて、併合へと支配を強めるアメリカの勢力からハワイを守ろうと画策していたのです。

太平洋に巨大な連合国を カラカウアの野望

そしてもう一つの驚きの提案は、「東洋諸邦同盟構想」なる太平洋とアジアの王国との連邦を創ろうというもの。

突飛な発想のようですが、カラカウアは本気で、1886年にはポリネシア帝国を建設のために3万ドルの予算を確保し、サモアマリエトア王ポリネシア連合成立の合意に至ります。しかし翌1887年のクーデターで、この構想はあっけなく消滅してしまいました。

オアフ島のポリネシア・カルチャー・センター ここで行われる「HĀ:ブレス・オブ・ライフ」はハワイで一番クオリティーが高いルアウ・ショーとしてクラブツーリズムのお客様にも大人気です (撮影:YUKO)

縁談について一時は、御前会議賛成派が多数を占めたのですが、明治天皇は熟慮の末、断ることを決断

翌年に明治天皇の特使として親書と山階宮定魔王直筆の英文の手紙を携えて長崎省吾がハワイ王国訪問し、この2つの提案を丁重にお断りしました。
それに対してカラカウア王は、欧米諸国の侵略に対する危機感を訴え「東洋諸邦同盟構想」の再検討を要請する返書を長崎省吾に託しています。

この縁談が成立していたら、日本とハワイの現在はどのようになっていたのでしょうね?

さて、日本を発った後、中国(清)、シャム、ビルマ、インド、エジプト、イタリア、ベルギー、ドイツ、オーストリア、フランス、スペイン、ポルトガル、イギリスを歴訪し、9ヶ月と9日間にもわたる世界一周の旅から戻ったカラカウア。

日本の天皇制や各国の王政を目の当たりにし、改めてハワイの王権復古の必要性を感じ、そのような政策を強めていきます。しかしその動きに白人たちの反発も強まります。

風雲急を告げる王国の運命やいかに?

次回の『カラカウア王と失われたハワイ王国・後編』をお楽しみに!

それではまたお会いしましょう!ALOHA!**

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