他のシリーズも公開中!
第1回「カメハメハ大王 前編」
第2回「カメハメハ大王 後編」
第4回「カラカウア王 後編」
第5回「ダニエル・K・イノウエと日系人」
容赦なく照り付ける強烈な日差しが、ふとゆるむ夕暮れ時。サンセットタイム――それがバカンスの地であればなおさら、日々の慌しい生活の中で心に絡みついた糸がふ~っとほどけていく瞬間です。
カラカウア通り沿いのワイキキビーチは、太陽が沈んでいくサンセットビーチ。夕暮れ時はヴィヴィッドな景色が嘘のように、セピアに似た淡いオレンジ色の光に包まれます。
この美しい夕陽がワイキキのビーチにまっすぐに落ちていくのは冬の間だけ。夏にはこの太陽、アラモアナ側に沈んでしまいます。
ところで世界的に有名なこのワイキキビーチ、全長約3㎞にも及び、8つのビーチセクションに分かれているって、ご存じでしたか?
西はカリアロード沿いのヒルトン・ハワイアン・ビレッジ前のデューク・カハナモク・ビーチ(Duke Kahanamoku Beach)から、私も学生時代仲間とよくバーベキューをしたフォート・デルッシー・ビーチ・パーク(Fort DeRussy Beach Park)、王族のヒーリングスポットだったグレイズ・ビーチ(Gray’s Beach)に、ワイキキの貴婦人の異名をとる優雅なホテルモアナサーフライダーとロイヤルハワイアンホテル前のカハロア&ウルコウ・ビーチ(Kahaloa&Ulukou Beach)、カラカウアが王妃に敬意を表して名付けた広大なカピオラニ公園前のビーチは、クイーンズ・サーフ・ビーチ(Queen’s Surf Beach)、エッグベネディクトで有名なハウツリーラナイの前のサンスーシ/カイマナビーチに、東の端はホノルルマガジンで一番ロマンティックなレストランに選ばれたミッシェルズ・アット・コロニーサーフの横アウトリガー カヌー クラブ・ビーチ(Outrigger Canoe Club Beach)と続きます。
そしてワイキキビーチと言われて多くの人が思い浮かべるワイキキポリスステーションからワイキキウォールまでのビーチは、プリンス・クヒオビーチ(Prince Kuhio Beach)。
サーフィンを世に広めたデューク・カハナモク像が建っているワイキキの顔ともいえるビーチです。
カラカウアの養子となり王国の王子となったクヒオの名を冠しています。
さぁ、それではカラカウア王とハワイ王国の行方が気になりますね。古のハワイ旅に出発しましょう!
ナビゲーターはこの私、ハワイ大学卒業生・ハワイ大好き添乗員・YUKOです。
Traveling without moving!
この旅にはパスポートも、ESTAも、重たいスーツケースも、PCR検査陰性証明書も必要ありません。必要なのは皆様の想像力だけです。
前編のおさらいはこちら
最新鋭の設備を備えたイオラニ宮殿
日本から始まり、アジア・ヨーロッパ各国を歴訪し世界一周の旅から戻ったカラカウア
帰国してから王政の復権を目指して次々と政策を実現していきます。
老朽化していたイオラニ宮殿(Iolani Palace)の建て替えもその一つ。カラカウアの帰国の翌年に完了したイオラニ宮殿は、現在アメリカ合衆国の国土に建つ唯一の王族公邸となっています。
このイオラニパレス、当時としては最新鋭の設備を備えた宮殿だったんです。
この時代とても賛沢だった水洗トイレや、バッキンガム宮殿やホワイトハウスにさえもまだ電気が通っていなかった時代に電灯で明かりが灯されていました。
実は世界一周の旅の最後に立ち寄ったニューヨークで発明家のトーマス・エジソンに会い、電灯のデモンストレーションを見てイオラニ宮殿での使用を決めたのだそう。
エジソンからは当時の先端技術である録音機も見せてもらいハワイ語で国民へのメッセージを収録。蝋で作られた円筒形の録音盤は現在でもビショップ博物館に大切に保管されています。
宮殿に電灯が灯る点灯式にはハワイの国民たち5000人が招待されました。
さらにお湯と冷水が流れる仕組みがあったり、ダムウェイターと呼ばれる手動式のエレベーターも設置。とにかく最新技術が大好きだったカラカウアの贅を尽くした宮殿なのです。
フラを公に解禁 語り継がれる盛大な戴冠式
1883年には、即位から7年経っていたにも関わらず2週間に亘る盛大な戴冠式を行います。
その戴冠式と1886年に行われた50歳のバースデー、シルバージュビリー(Silver Jubilee)でフラを公開し、禁止されていたフラを公に復活させました。
毎年ハワイ島で開催されているフラの最高峰のコンペティション「メリー・モナーク・フェステバル」はもちろんカラカウア王を讃えてのものです。
ちなみに今ではハワイアンミュージックに欠かせない楽器ウクレレを広めたのもカラカウア王です。ポルトガル移民が持ち込んだ楽器を基にハワイで生まれたこの楽器をカラカウアがとても気に入って王自身もウクレレの名手だったそうです。
戴冠式のイベントでは、フラの伴奏楽器としてウクレレが使われ、モダンフラと呼ばれる「フラ・アウアナ」を生み出すことになりました。
歌と踊りをこよなく愛したカラカウア。「フラは心の言語である。すなわちハワイ人の心臓の鼓動そのものだ。」という言葉を残しています。
またカラカウアは戴冠式の後、クプナ(Kupuna)と呼ばれる長老たちや古代ハワイアンの神官カフナを宮殿に集め、ハワイアンの伝説や神話を語りつくさせ、最終的に彼らの物語を「ハワイの伝説と神話」(The Legends and Myths of Hawaii: The Fables and Folk-lore of aStrange People)という本にまとめ1888年に出版。
またカラカウア王の命を受けハワイの王族の聖なる血統を伝える2000行以上の長いチャント(詠唱) 「クムリポ(Kumulipo)」が書き起こされました。
アリイオラニ・ハレ前のカメハメハ大王像もこの戴冠式にて発表されています。
王権を奪え! 白人勢力の悪名高き銃剣憲法
王権を強める政策を取っていたカラカウアを面白く思っていなかった白人勢力。アヘンに関する収賄スキャンダルによってその不満が一気に爆発します。
1887年、サンフォード・B・ドール(Sanford B. Dole)らアメリカ系移民を中心に結成されたハワイ連盟が王政の廃止とアメリカ合衆国への併合を求め、銃を取って集結。
銃で脅され新憲法にサインをせざるを得なかったカラカウア。そのため銃剣憲法(Bayonet Constitution)と呼ばれています。
この憲法は裕福なアメリカ系移民の参政権を大幅に認め、王の実質的な権力を失わせるものでした。
この憲法で権利を奪われたのは、カラカウアだけではありません。新しい憲法は外国籍の男性住民にも選挙権が与えられることになったのですが、アジア系移民は排除され、欧米系の移民にのみという今ならSNSで大炎上しかねない人種差別的な内容でした。
さらに選挙資格に収入や資産に関する資格を設けたので、ハワイアンの多くが選挙権を喪失するという念の入れよう。白人勢力がハワイを意のままに操るための憲法だったのです。
カラカウア逝く 意志を継いだリリウオカラニ女王
大きな政治的圧力に耐えてきたカラカウア王は1890年にアルコール依存によって体調を崩し、医者の薦めでサンフランシスコへ療養に出ますが、1891年1月20日に逝去。
鮮やかな色とりどりの旗で飾られ、豪華なアーチ形の門が造られ王の帰国を心待ちにしていたホノルルの街でしたが、米国汽船チャールストン号がダイヤモンドヘッド沖に姿を現した時、人々が目にしたのは船を覆う果幕と半旗。
装飾は直ちに取り外され、舞踏会も中止となり、宮殿も国民も悲しみに沈みました。
王の死後、後を継いだのはハワイ王国最後の女王となる妹のリリウオカラニ (Lili'uokalani)です。
カラカウアが銃剣憲法に署名をさせたれた時は、カラカウアの代理として英国・ビクトリア女王の在位50周年を祝うゴールデンジュビリーに出席していました。
その際にアメリカのワシントンDCに立ち寄り、当時の米国大統領であったスティーブン・グロバー・クリーブランド(StephenGrover Cleveland)と親交を深めていたことがこの後の王国の運命に大きな影響を与えます。
歴代アメリカ大統領で唯一、「連続ではない2期」を務めた大統領だよね。
ニューヨークの自由の女神像の除幕式に参加した大統領としても有名ですね。
ハワイ王国の転覆 王政廃止と臨時政府樹立
即位してすぐリリウオカラニはあの日本の皇室と縁談のあったカイウラニ王女を後継者に指名します。内閣を解散し、新内閣を発足。
ちょうどその頃ハワイの経済はマッキンリー関税(McKinley Tariff)により米国とハワイが結んだ互恵条約が意味をなさなくなり、さらに国内の砂糖農園に補助金を出すなどの保護貿易主義により大打撃を受けていました。
王国議会は異例の171日間召集され、経済危機を緩和するための政策が議論されましたが、政治的争いのため紛糾。
銃剣憲法により女王の権力はほぼありません。そこで銃剣憲法に代わり王権を復活させるための新憲法の草案にかかりましたが、それを察知した反対派がクーデターを起こし王国が転覆(Overthrow of the Hawaiian Kingdom)されてしまいます。
1893年1月16日、王政派とサンフォード・ドールやロリン・A・サーストン(Lorrin Andrews Thurston)などが首謀する白人勢力との衝突で混乱する中、米国公使ジョン・L・スティーヴンス(John L. Stevens)は「血に飢えた女王が恐怖の専制王権を復活させようとしている」とデマを流し、ホノルル港に停泊中の米国軍艦「ボストン」の海兵隊160人を上陸させ、イオラニ宮殿を包囲させました。
サーストンって、ハワイに最初にやってきた宣教師の名前と一緒だけど…
まさにそうです。最初の宣教師夫妻の孫にあたります。またキラウエア火山国立公園に行ったことのある人は、「サーストン・ラバ・チューブ」でその名前に聞き覚えがあるかもしれません。
翌日には白人勢力が政庁舎を占拠し、王政廃止と臨時政府樹立を宣言しました。そしてドールが臨時政府の大統領に就任。臨時政府は王政転覆から48時間以内に、ハワイ王国と外交関係を結んでいた諸国から合法政府として承認されました。
臨時政府など認めない!日本の軍艦がハワイにやってきた
ところが肝心のアメリカはどうかというと、当時大統領だったクリーブランドは、リリウオカラニと親交があり、また正義感の強い人でした。
クリーブランドは、ハワイ王国崩壊についての調査官をハワイに送り、ハワイ王国とリリウオカラニ女王に対する不法行為があったと結論付けます。
さらにリリウオカラニ女王の復権と臨時政府の解散を求めましたが、ドールはそれを「アメリカによる内政干渉だ」と拒否。
はぁ?自分たちの方こそアメリカ人なのにハワイを乗っ取ったじゃないか!
まぁ、そうですよね。
そしてもう1か国、このハワイ共和国を承認しなかった国があります。
それは、日本。
クーデターを知った日本はすぐに巡洋艦「浪速」と装甲艦「金剛」の2隻の軍艦をホノルル港に派遣します。「浪速」の艦長は、東洋のネルソンと呼ばれた東郷 平八郎です。
旭日旗をはためかせながらやってきた「浪速」と「金剛」は、米国軍艦「ボストン」を挟むように投錨し、にらみをきかせました。
実はこの船にカラカウア王に縁談の話を持ち掛けられた山階宮定魔王(東伏見宮依仁親王)が乗船していたと言います。王の亡き後、王国が崩壊してしまったハワイを見て何を思われたでしょうか。
ハワイ王国の終焉とリリウオカラニの幽閉
アメリカと日本の不承認の甲斐なく、臨時政府は1894年7月4日、サンフォード・ドールを大統領として共和国を樹立していまいます。
幾度となく反対集会が繰り返すハワイアンの人々。
しかし翌年1895年1月6日王政派のロバートW.ウィルコックス(Robert William Wilcox)らが反乱(1895 Wilcox rebellion)を起こしたことをきっかけに、リリウオカラニの私邸やイオラニ宮殿の庭から多くの銃器が見つかったとして、リリウオカラニはイオラニ宮殿に幽閉されてしまいます。この反乱にはワイキキビーチの名前となったクヒオ王子も参加し、赦免はされましたが、一時は死刑を宣告されました。
1月22日、反乱で捕らえられた約200人の命と引き換えに、リリウオカラニは退位の文書に署名を強制され、ハワイ王国は完全な終焉を迎えます。
幽閉中、女王はカラカウア王の出版した「クムリポ」を英訳し、あの有名なハワイアンソング「アロハ・オエ」を発表しています。
アメリカは併合反対派だったクリーブランド大統領から、併合賛成派のウィリアム・マッキンリー(William McKinley)大統領に代わり、1898年7月4日、ニューランズ決議(NewlandsResolution)を合衆国議会が可決し、ハワイはアメリカに併合されました。
う~ん、なんかモヤモヤする.....
でも実はサンフォード・ドールとリリウオカラニとの関係は良好だったという話もあるんです。ドールはリリウオカラニの刑を減刑したり、その後何かと便宜を図っています。
カラカウアの文化遺産
もちろん、ハワイの人々の理不尽な想いは現在でも消えていません。
カラカウアが礎を築いたハワイアンルネッサンス運動も、現在でもネイティブハワイアンの人々に受け継がれていますし、カメハメハスクールではハワイ語の教育、私の母校ハワイ大学でもハワイ語やハワイ研究の専攻学科があります。そして、ハワイ大学では、ハワイアンスタディー(Hawaiian Studies)は全学生の必修科目です。
フラと共に禁止されていたサーフィンも今では世界中で愛されるスポーツとなり、今やあの大きなスポーツ大会でも初めて正式種目に追加されました。これもカラカウアのハワイの文化の復興活動の継承によるものです。
現在カラカウア王の銅像は、ワイキキのカラカウア通りとクヒオ通りの交差する三角形の小さな公園ワイキキ・ゲートウェイパークに立っています。
実はこの銅像、日本からの官約移民100年を祝して1985年に日系団体により建立されました。
カラカウア王が日本で明治天皇に提案した3つのうちの一つ、官約移民はカラカウアの帰国から4年後に始まりました。そのためハワイでは「日系移民の父」とも呼ばれています。
日本でのおもてなしに感激したカラカウア。日本を去る際、自身の旅行記にこう記しています。
「さようなら日本、美しき国よ。できればここでずっと心優しく心からもてなしてくれる人々の住むこの興味深い国を見ていたい想いに何度も駆り立てられた。アロハヌイ・愛を込めて」
(Adieu Japan—Beautiful Japan. I felt as if I would have a continual longing to see this interesting country with its kind and hospitable inhabitants for a long long time. Aloha Nui.)
日本に良い印象を抱いていたカラカウアです。その名前を冠したカラカウア通りにたくさんの日本人がやってくることを、「おぉ、よく来たね。楽しんでいきなさい」と喜んでいるのではないでしょうか?
いつかまたワイキキを訪れることがあったら是非立ち寄ってみてくださいね。
ちなみにカラカウア王の像が手にしているのは、明治天皇との間に交わした移民に関する契約書だそうですよ。
さて、カラカウア王が、種をまき育てた「ハワイの日系移民たち」。王国が終焉した後もこの南国の楽園でハワイの繁栄を助けていきます。
次回は大統領継承第3位にまで上り詰めた日系人の星「アメリカの英雄ダニエル・K・イノウエとハワイの日系人」をお送りします。
それではまた、次回お会いしましょう!ALOHA!**
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