日本人がこよなく愛するリゾート・ハワイ。知っているようで知らないハワイの横顔や歴史に迫る本シリーズ。第5回目は、現在ハワイでは確固たる地位を築いている日系人たち。中でも大統領継承第3位にまで上り詰めた日系人の星であり、アメリカの英雄ダニエル・K・イノウエの波乱万丈な人生を、さとうきび畑で必死に働きながらもがき続けた日系人の姿と共にお送りします。(2021年12月23日更新)

空がぐーんと高くなった午後。強い日差しが和らいで、涼やかな風が吹き始める秋の初めは、なんだか夏に忘れ物をしてきたような気分になってしまいます。どこにも行けない日々が続いた今年は「なおさら」ですね。

そんな時に行きたいのは、やっぱり常夏の楽園・ハワイ。ここにはいつでも夏の忘れ物を取りにいくことができます。

(撮影:YUKO)

ところで、ハワイを訪れる私たちを迎えてくれるハワイの玄関口、ホノルル国際空港が、2017年5月30日ダニエル・K・イノウエ国際空港と改名されたのをご存じですか?

サンゴ礁の上に建設されたリーフランウェイから離陸する際の景色の美しさも有名です(撮影:YUKO)

ハワイアン航空のエクストラ・コンフォートのアメニティキット コレクションしている人も

以前のバージョン ハワイらしいデザインが可愛いとお客様に好評でした (左右写真:撮影YUKO)

日中夜間を問わず飛行機が離着陸する24時間空港として、コロナの感染拡大前にはハワイの人口の約15倍、年間2000万人を超える人々が利用する環太平洋地域の主要なハブ空港として世界中に名の知られていたホノルル空港。その名称変更のニュースに、少なからず驚きを感じた人も多かったのではないでしょうか?

でもそれほどにダニエル・ケン・イノウエという人物がハワイにとって偉大で重要な人物だったということなんです。

日本人の苗字のランキングでは常に20位以内に入るほどポピュラーな井上という苗字が示す通り、日系2世としてハワイのオアフ島に生まれたダニエル。サトウキビプランテーションの労働者として福岡県から移民してきた父と、広島県から移民した両親が亡くなり孤児となってしまった母にルーツを持ち、幼少期はとても貧しい生活を送ってきた少年が、どのようにしてアメリカの英雄となり、国際的な空港にその名を称えられる人物となったのでしょうか。

「楽園ハワイの横顔・歴史旅」、最終章はぐっと私たちの身近な時代に近づいてダニエル・K・イノウエと日系人について、時間を旅していきましょう

ナビゲーターはいつものように、ハワイ大学卒業生・ハワイ大好き添乗員・YUKOです。

Traveling without moving!

この旅にはパスポートも、ESTAも、重たいスーツケースも必要ありません。必要なのは皆様の想像力だけです。

それでは出発しましょう。

ケネディー大統領の時代から?約半世紀 史上2番目に長い在任期間

ダニエル・K・イノウエは、米国史上2番目に長い、1963年からなんと9期にも亘って上院議員を務めた人物。正確な在任期間は、あと少しで半世紀という49年と349日でした。

1963年というと、ジョン・F・ケネディ大統領の時代からずっと?

ケネディ大統領は、イノウエ議員の家族を大統領執務室に招待してくれたそうですよ。

ニクソン大統領の時代には上院ウォーターゲート特別調査委員会のメンバーとして。ニクソンを追い詰め、レーガン政権イラン・コントラ事件では議会委員会の議長も務めています。

共和党の地盤「赤い州(Red State)」だったハワイを民主党の地盤「青い州Blue State)」へと塗り替えた1954年ハワイ民主革命(Hawaii Democratic Revolution of 1954)の立役者の一人であり、2010年からは上院議長代行として大統領継承第3位 (third in the presidential line of succession)まで登り詰めた人物でした。

今年初めにインドにルーツを持つカマラ・ハリスが副大統領に就任するまでは、アジア系議員としては最高位だったんだよね?

そうなんです。日系人としては、現時点でも最高位まで登り詰めた人物ですよ。

上院議長代行であったのは2010年から2012年の亡くなるまでの期間。当時の大統領はオバマ氏、副大統領はバイデン氏です。

長年、上院歳出委員会(US Senate Committee on Appropriations)のメンバーで2009年から2012年までは議長まで務めたイノウエ議員は、莫大な連邦予算をハワイに割り当ててきました。

そのためイノウエ議員が亡くなったハワイ州はInouye Cliffという財政難(Fiscal Cliff)が懸念され議会に法案が提出されたほどです。Cliffは直訳するとの意味で、ハワイ出身のオバマ大統領からトランプ政権に代わった時は、さらに懸念が広がりました。

リンカーンやケネディと同じ栄誉 合衆国議会議事堂での遺体の安置

2012年12月17日、在任中に呼吸器不全で亡くなった際には、エイブラハム・リンカーン大統領ジョン・F・ケネディ大統領など、それまで歴史上たったの31人だけに行われたアメリカ合衆国議会議事堂の円形広間にその亡骸を安置されるという異例の栄誉も与えられました。

ワシントン国立大聖堂で行われた追悼式の最前列には、オバマ元大統領バイデン大統領クリントン元大統領がずらりと顔を揃え、その様子が全米に中継されています。

凄い顔ぶれ!

当時ハワイに在住していた私も、テレビでオバマ大統領の弔辞を聞いていましたが、印象的だったのはこんな内容の言葉です。

「ダニー(イノウエ議員)が、国(アメリカ)に尽くしているのは、愛国心を疑われることなくこの国で育つ権利のある全ての子供たちのためなのだと、ここは私たちの国なのだと、その権利を手に入れるために(第二次世界大戦で)大勢の仲間が戦ったのだと、彼はある時、息子に語ったそうです」

オバマ大統領の美しい弔辞は、YouTubeで字幕付きの動画を見ることができます。自然と涙が溢れてくるような、とても心に響く内容なので、お時間があれば是非ご覧ください。

現在イノウエ議員が眠るハワイの国立太平洋記念墓地 2度目の追悼式もここで行われオバマ大統領も出席 

イノウエ議員は熱心なキリスト教徒ながら十字架にすることに異議を申し立て多様な宗教を尊重した墓標に

米軍史上最も多くの勲章を受勲した日系人部隊 第442連隊戦闘団

オバマ大統領も弔辞で語っていますが、第二次世界大戦の英雄であるイノウエ議員。

アメリカ軍の最高位の勲章で、大統領から直接授与されるMedal of Honor (名誉勲章)を始め、「戦闘において比類ない英雄的行為をした者」に贈られるthe Distinguished Service Cross (陸軍殊勲十字章), 「作戦において英雄的、かつ名誉ある奉仕を行い、成果を挙げた」兵士に贈られるthe Bronze Star (ブロンズスターメダル)など数々の勲章を受勲しています。

イノウエ議員だけではなく、第二次世界大戦中に組織された日系人部隊第442連隊戦闘団(the 442nd Regimental Combat Team)に従軍した多くの兵士が数えきれないほど勲章を受勲し、月日が経つほどに功績を見直され勲章の数が増えているのです。

アメリカ合衆国史上もっとも多くの勲章を受けた部隊として有名だよね

どうしてこれほどの武勲を上げられたのか?そこには日系人の歴史がありました。イノウエ家の歴史を辿りながら見ていきましょう。

1日15時間 過酷なサトウキビプランテーションでの労働

ハワイ王国崩壊後、白人勢力が樹立したハワイ共和国が望むアメリカとの併合が1898年に共和党のマッキンリー大統領の下で認められ準州となったハワイ。

2021年現在ではフィリピン系の人々がハワイの人口の最大多数を占めていますが、実は2010年ぐらいまでは常に人口の最大多数を占めていたのは日系人だったんです。

フィリピン系元ハワイ州知事 ベン・カエタノ 2012年ホノルル市長選開票日の支援者パーティー
(撮影:YUKO)

数の上で「日本化」が進んでいくことに焦りを感じたハワイ共和国政府は、1897年に日本人移民の上陸を拒否したり、アメリカやヨーロッパ、特にポルトガルからの移民を増やそうと画策しますが、高額な費用や労働環境への高い要求のために断念。1920年にはハワイの総人口25万人のうち11万人日系人という状況になりました。

イノウエ議員の祖父母が3人の子供の中で4歳の長男だけを連れてハワイのカウアイ島にやってきたのは、自身の家から出た失火による村への損害賠償金800円(当時教員の初任給が9円程)を支払うためでした。

一日12時間から時には15時間に及ぶ「さとうきび畑」での労働。
実際に手元にもらえる10ドルの月給(20円)から必死に日本へと送金していましたが、返済が追いつかず、簡易な銭湯を作って日銭を稼いだり、朝2時に起きてとうふを作り、出勤前の日本人労働者の家に売り歩くなど寝る間も惜しんで働いたそうです。

1日15時間働いてそれっぽっち?砂糖産業は儲かっていたんでしょ?

日本人労働者が人口の多数を占めたことで有利に労働交渉ができるかと、ハワイ初の日本語新聞「日布時事」が主導して、労働改善を求めて大規模なストライキを幾度か起こしましたが、プランテーション側もフィリピン人の労働者を増やすなどして対抗し、なかなか改善されませんでした。

ハワイ初の日本語新聞の社屋 現在でもホノルルのダウンタウンに建物が残っています (撮影:YUKO)

裸足で過ごした貧しい日系人街マッカリー&モイリイリでの日々

そんな時に日系1世が熱心に行ったのは子供の教育です。イノウエ議員の父・兵太郎も、子供のころからサトウキビ畑で働きながらも英語を学ぶことで、Big Fiveと呼ばれるハワイの大会社で文書係の職に就くことができ、長い間働きながらついに借金を完済。

イノウエ議員の幼少期は、オアフ島の日系人が多く住むダウンタウンの外れや、マノアにあるハワイ大学のすぐ近くのモイリイリ(Mōʻiliʻili )マッカリー(McCully)で育ちました。靴は一足しかなく大き目のサイズ、それもすり減らしてはいけないと高校までほとんど裸足で過ごしていたそうです。

でもこれは特別なことではなく、その頃の日系人の家庭はどこも同じようなもので、奴隷のようなさとうきび労働から抜け出し、少しでも豊かになろうと誰もが必死にもがいていました。

現在では隠れた名店が多いモイリイリ 創作料理で人気のThe nook

地元ハワイの人々で行列ができるインド料理店 Maharani (左右写真 撮影*YUKO)

ハワイ料理の名店Willows 美しい庭園もあるレストランでローカルの人々の特別な集まりにも使われる 
取材に応じてくれたこの日はWedding Showerが行われていました (撮影:YUKO)

「祖国に裏切られた」日系人の運命を変えた日本軍の真珠湾攻撃

そんな日系人のささやかな生活を打ち砕いたのは1941年12月7日(日本時間8日)の日本軍による真珠湾攻撃

モイリイリやマッカリーといった町の通りは「祖国に裏切られた」とオロオロする日系人の人々でごったがえし、そこに敵機である日本の戦闘機を打ち落とそうと米軍高射砲から放った砲弾が雨あられと降り注いできて、応急処置班として走り回っていたイノウエ議員は地獄のような光景だったと自伝の中で語っています。

真珠湾攻撃で1,177名の兵士と共に沈没した戦艦の上に作られた国定慰霊碑アリゾナメモリアル 80年経った今も涙を流すように少しずつ燃料の油が漏れ出ています ここに行くにはチケットの取得、義務づけられた映画の鑑賞、専用のフェリーへの乗船が必要なので早めの時間帯にゆったりと時間をつくって訪れたい (撮影:YUKO)

約12万人もの日系人が、ルーズベルト大統領が1942年2月に発令した大統領令9066号によって敵国人として財産を奪われ、強制収容所に連行されました。3分の2はイノウエ議員のように米国で生まれ育った日系2世や3世でした。

でもその頃、ハワイの日系人は人口の4割ぐらいを占めていたんでしょ?

日本から直接の攻撃を受けたハワイですが、日系人を擁護する人々がいたことや、あらゆる職種に日系人が携わっていたことで、経済への影響を考慮しアメリカ本土に比べると強制収容される人は少なったようです。それでも、市民権のない1世の多くが抑留されました。

徴兵の知らせに歓声 家名を汚すな「Go for broke!」

敵国人として差別を受け続けてきた日系人。1943年になってアメリカの陸軍省は突然、日系2世の義勇軍を受け入れると発表しました。ハワイ大学の講堂でその知らせを聞いた学生たちは大歓声を上げてそのまま徴兵局まで我先にと走っていったそうです。もちろんその先頭集団の中にはイノウエ議員の姿も。

「僕たちもアメリカ人なんだと認めてほしい」 「敵国人ではないことを証明したい」 「自分の国(アメリカ)を守るんだ」ハワイ在住の日系人には特にその想いが強かったといいます。

ところが、医学生であり応急処置センターで働いていたイノウエ議員は徴兵から外されてしまいます。そのことに涙したイノウエ議員は入隊を迫って徴兵局に直談判。大学も仕事も辞め、ハワイから入隊した2,686名中、2,685番目に滑り込み、のべ死傷率314% 、のべ死傷者数9,486人という第442連隊戦闘部隊の一員となったのです。

死傷率314%ってどういうこと? 大隊の全員が死傷したら100%でしょ?

死傷者が出ると当然、補充兵が投入されます。前日に着任した補充兵が次の日には死亡や負傷でいなくなるほど死傷者が多かったそうです。もちろん入院が必要とする負傷をしても病院を抜け出して何度も戦場に戻ってくる兵士もいましたが、3,000人から最終的には4,000人に膨れ上がったという部隊の兵士が3回以上入れ替わったぐらい犠牲者が多い部隊だったということがこの数字に表れています。

「Go for broke!」は、ピジンと呼ばれる移民たちが使う文法的には正しくない英語の言葉
意味は「当たって砕けろ!」(撮影:YUKO)

日系人だけで構成された第442連隊戦闘部隊ヨーロッパの最前線に投入され、「Go for broke!」の合言葉のもとに、死を恐れない勇猛果敢な闘いぶりで、死線をくぐりぬけていきます。

国のため、アメリカ人だと認められるために死力を尽くした日系2世の兵士たち。でもそのこの根底にあるのは、悲しいことに日本的な考え方。イノウエ議員も両親から「家名を汚すな」と送りだされたそうです。

現在も、モリイリイリにあるJapanese Culture Center(日本文化センター)には(debt of gratitude)、我慢(quiet endurance)、責任(responsibility)、恥・誇り(shame /pride)、名誉(honor)、義理 (sense of duty)、犠牲(sacrifice)という文字が、それぞれ岩に刻まれ、日系人をこのハワイという地で繁栄させた価値観として展示されています。

戦闘で失った右手 諦めなければならなかった夢と新たな目標

442連隊戦闘部隊はイタリアの最前線に送られ、死者が次々と出る中、倒れた指揮官を次の兵士が引き継ぎ、イノウエ議員もいつの間にか少尉となっていました。

ハワイ大学のハミルトン・ライブラリーに展示された兵役中のダニエル・K・イノウエの写真(撮影:YUKO)

イタリア戦線で小隊を指揮し、ドイツ軍のバンカーに突撃した時、敵の弾に腹部を撃たれますが、そのまま手榴弾を投げ一台目の機関銃座を破壊。2台目に向かった時、至近距離で撃たれ右手に炸裂、それでも残った左手で手榴弾をなげつけ2台目を破壊。左手で機関銃を撃ち3台目に向かう時に脚を撃たれ、丘を転がり落ちました。この勇猛な闘いのおかげで味方のための防衛陣地を築きましたが、永遠に右腕を失うことになってしまったのです。イノウエ議員は、右手が敵の銃弾ではじけた時、「他のどんなものになれても医者にはなれないだろう。片腕の医者にはなれない」と人生をかけた夢を諦めたと振り返ります。

手術と治療、そしてニューヨークでの長いリハビリの末、ようやくハワイに戻ってきたイノウエ議員。一兵卒で入隊して除隊時の階級は大尉でした。

除隊後、ハワイ大学に復学し、政治学を学びます。

ハワイ大学Stan Sheriff Centerで行われた卒業式 イノウエ議員は私の先輩ということになりますね(撮影:YUKO))

その後、開戦直後に反日感情が高まる中、「ハワイの日系アメリカ人には全幅の信頼を寄せている」発表し、日系人を擁護してくれた一人、当時ホノルル警察署長だったジョン・A・バーンズとともにハワイの政治を作り上げていきます。そのためにワシントンDCのジョージワシントン大学のロースクールに入学し、1952年に法学位も取得しました。

戦時中の日系人部隊の活躍にも係わらず、相変わらず日系人への差別は続いてしましたが、日系人の努力によって徐々に地位を気づいていきました。現在では政治の世界でも多くの日系人が活躍しています。

ハワイ州知事オフィス 現在の州知事は沖縄にルーツを持つ日系人・デービッド・ユタカ・イゲ知事

オバマ大統領の弔辞で語られたように、とても謙虚だったイノウエ議員。在命中は自分の名前を付けることを固辞していたそうですが、亡くなってからは、空港名を始め、アーレイバーク級駆逐艦、マウイ島のハレアカラ天文台にある先端技術太陽望遠鏡アメリカ海洋大気庁のセンターC-17軍用長距離輸送機ハワイ島のハイウェイなどに次々と名前が冠され、その数は月日が経つ毎に増えています。

最後に一つだけ付け加えておきましょう。1993年11月23日にイノウエ議員ともう一人のネイティブハワイアンの血統を持つダニエル・K・アカカ上院議員によって提出された謝罪決議(Apology Resolution:United States Public Law 103-150)が米国議会の両院で採択され、クリントン大統領によって署名されました。ハワイ王国を転覆させ、自治権を奪った行為は違法であったことが認められ、ハワイ先住民の人々に公式に謝罪がなされたのです。
ハワイ最後の君主リリウオカラニが涙をのみながら退位したあのハワイ王国最後の日1893年1月17日から実に100年の時が過ぎていました。

また、イノウエ議員は、準州時代に州議会がイオラニ宮殿で開かれ、議長が王座に座っていたことに憤慨し、テントでもいいからハワイアンの歴史的遺産を汚すべきでないと主張しています。孤児であったイノウエ議員の母は、ハワイの人々にとても良くしてもらったを忘れなかったのでしょう。

ハワイ共和国によって王国が転覆した後、イオラニ宮殿の家具や絨毯まではがされ競売にかけられ多くのものが世界中に散逸してしまいました。政府と王室の財産目録や、競売一覧をもとに一つ一つ取り戻し、行方のわからない品々を今も捜しています。時にはイギリスやカナダからも見つかるそうです。(撮影:YUKO)

アメリカ人であることに誇りを持ち、アメリカやハワイの人々へ尽くすことに人生をささげたイノウエ議員。でもやっぱりその根底には日本的な文化的価値観がある気がするのです。

ハワイ在住中も感じましたが、私たちがハワイに行くと好意的に迎えられるのも、ハワイの日系人が誠実に働き、よき市民として暮らしてきたおかげなのではないでしょうか?

おわりに

さて、全5回にわたってお送りしてきた楽園ハワイの横顔・歴史旅いかがでしたか?リゾートハワイのまた違った横顔を感じていただけたのではないでしょうか?

最後は、イノウエ議員が最後に残した言葉「Aloha」でお別れしましょう。オバマ大統領が語った通り、この言葉は「こんにちは」でもあり「さようなら」でもありの言葉でもあります。

できればこの状況が改善し、今度はハワイの地で皆様にお会いしたいですね。

歴史旅にお付き合いいただきありがとうございました Aloha!

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