バッハの旅の魅力
バッハの旅は、音楽を目的とした旅行では最も人気があります。何故なら比較的狭い地域内でバッハの足跡をたどることができ、短い旅行期間でバッハの音楽人生を十分に知ることができるからです。またバッハゆかりの街が、ドイツの観光ルートとして人気のあるゲーテ街道上に点在し、音楽と深く関わりのある歴史や文学にも触れることができるという魅力もあります。
ゲーテ街道のハイライトとなる街は3つあります。アイゼナッハは、緑豊かなテューリンゲン地方、旧東西ドイツの国境近くに位置する街で、バッハの生誕地です。バッハが洗礼を受けたゲオルク教会やバッハ記念館など、バッハを偲ぶことのできる場所がありますが、この街の歴史的な価値は、ワーグナーのオペラ「タンホイザー」の舞台でもあり、世界遺産にも登録されている中世の名城ヴァルトブルク城に見ることができます。特に宗教改革の渦中、ルターが城内の一室で聖書をドイツ語に翻訳するという歴史的大偉業を成し遂げたことはよく知られています。
ワイマールは、何と言っても多くの音楽家にインスピレーションを与えた文豪ゲーテとシラーが名作を遺したことで知られていますが、約10年間過ごしたバッハが宮廷オルガニストなどを務めています。またルターと親交のあった大画家クラナッハや宮廷楽長のポストに就いていた作曲家リストの活躍の場ともなり、幾度となく文化・芸術が開花した街です。
そしてライプツィヒは、若きゲーテが通った古い大学のある街ですが、多くの音楽家にゆかりのあるドイツ有数の音楽都市です。バッハが没するまでの28年間過ごし、ワーグナーが生まれ、シューマンがクララとの結婚後の幸福な日々を送り、メンデルスゾーンがゲヴァントハウス管弦楽団で活躍し、シラーが第九の「歓喜の歌」を書き、マーラーが交響曲第1番を作曲しています。
バッハの足跡
ヨーハン・セバスティアン・バッハは、1685年3月21日、アイゼナッハで、町の音楽師の子として生まれました。7歳のバッハは、洗礼教会でもある聖ゲオルク教会付属のラテン語学校に入学し、聖歌隊にも加わって美しいボーイ・ソプラノを響かせたとされています。バッハは、音楽を重んじるプロテスタント、ルター派の宗教教育を受け、後にルターが創始した教会音楽に深く関わることになります。9歳のときに母を、10歳のときに父を失ったバッハは、オーアドゥルフの教会オルガニストの兄を頼ってアイゼナッハを去ります。
その後半年ほどワイマールで宮廷楽師を務めた後、1703年、バッハが初めてオルガニストのポストに就いたのが、アルンシュタットにある新教会です(1935年にバッハ教会と改名)。 しかし血気盛んな若者バッハと教会との関係は次第に悪化し、バッハは1707年にはこの地を去りました。新天地ミュールハウゼンの聖ブラジウス教会オルガニストのポストも、僅か1年足らずで投げ出し、宮廷オルガニスト兼宮廷楽師としてワイマールに移ります。
バッハは、君主ワイマール公ヴィルヘルム・エルンストによって優遇され、約10年間過ごします。後に宮廷楽師長にまで昇進しますが、バッハが望んだ最高の地位である宮廷楽長にはなれませんでした。結局バッハは、ケーテン侯の宮廷楽長就任要請を受け入れワイマールを去ります。
ケーテンは、アンハルト・ケーテン侯の城下町として栄え、音楽好きの君主の下、16名の優秀な奏者からなる立派な宮廷楽団を持っていました。バッハは宮廷楽長として恵まれた環境が約束され、この地に骨を埋めても良いとまで思っていました。しかし君主はプロテスタント諸侯でも教会音楽を重んじないカルヴァン派の信奉者で、世俗の音楽の作曲ばかりを求め、敬虔なルター派の信者だったバッハの心は、次第に離れていきました。ケーテン時代は、宗教色のないブランデンブルク協奏曲や無伴奏チェロ組曲等の優れた作品を世に遺しました。
ハレは、ヘンデルの生まれた街として知られています。街の中心にあるマルクト教会(聖母教会)は、ヘンデルが洗礼を受けた教会でもあります。後にヘンデルは小オルガンを弾き、バッハの長男フリーデマンは18年間教会オルガニストを勤めています。バッハはワイマール時代に、この教会の大オルガンに魅せられ、教会オルガニストを志願した経緯があります。
バッハは1723年、当時、ドイツで最も繁栄した都市ライプツィヒの音楽監督兼トーマスカントル(カントルは「聖歌隊指揮者」の意)に採用され、死ぬまでの約28年間を過ごしました。バッハの仕事は、ライプツィヒにある主要4教会のために教会音楽を作曲・上演したり、トーマス教会付属学校で教鞭をとったり、市の行事にも音楽を提供したりという超多忙なものでした。バッハはカントル就任後の5年間、教会カンタータを毎週1曲、作曲したといわれています。その後「ヨハネ受難曲」と「マタイ受難曲」など大規模な声楽曲も作曲しています。
ライプツィヒ時代の後半に入ると、ザクセン公から「宮廷作曲家」の称号を得るために、プロテスタントの教会音楽としてドイツ語で作曲していたバッハが、カソリックの君主に献呈するためにラテン語の曲を書くようになりました。またザクセン公の居城都市ドレスデンを幾度となく訪れ、聖母教会などで演奏会を催し、オルガニストとしての名声は頂点に達しました。
バッハは最後の大作である「ロ短調ミサ曲」を完成させた頃に、白内障が悪化して失明し、1750年、ライプツィヒで65年の生涯を閉じました。バッハの遺体は、没後200年になる1950年に、トーマス教会内に移されました。
ツアーでは、バッハの足跡をたどり、音楽祭のフィナーレを飾る「ロ短調ミサ」を、バッハの墓所がある聖トーマス教会で鑑賞します。
お問い合わせ、お申し込みは・・・
クラブツーリズム 海外音楽鑑賞の旅「アンコール」
お電話: 03-5323-4455(月~土 9:15~17:30)(日・祝 9:15~13:00)
メールアドレス: td.culture@club-tourism.co.jp
住所:東京都新宿区西新宿6-3-1 新宿アイランドウイング