ウィーンでの学生時代
マーラーは1875年、ウィーン楽友協会音楽院(現在のウィーン国立音楽大学)に入学し、ピアノ、和声学、作曲を学びました。当時ウィーン大学で教鞭をとっていたブルックナーの和声学の講義も受講していました。そして18歳で優秀な成績で卒業し、20歳を迎えて以降、指揮者としての道を歩むことになり、ウィーンを離れます。
指揮者として活躍
最初は小さな町の劇場指揮者から出発し、カッセル、プラハ、ライプツィヒといった都市の大きな歌劇場では副指揮者のポストに就きました。そしてオペラ指揮者としての実績が認められ、1888年、ブダペストの王立歌劇場で初めて首席指揮者(音楽監督)という重要な地位を得ることができました。しかし意見対立などからわずか2年で退任してハンブルクへ移り、歌劇場音楽監督を7年務めた後、1897年、36歳の時にウィーン宮廷歌劇場(現在のウィーン国立歌劇場)の総監督(~1907年)としてウィーンに戻ります。そして50歳で没するまでウィーンを拠点に活躍することになります。
ウィーン・フィルの首席指揮者兼務
現在もウィーン・フィルは、ウィーン国立歌劇場の演奏を担当していますが、宮廷歌劇場の総監督になったマーラーは、ウィーン・フィルとの関係も深め、1898年から3年間、首席指揮者として楽友協会ホールでの演奏会も指揮しました。
作曲活動は避暑地で
マーラーは、ハンブルク歌劇場の音楽監督時代に、夏の間ザルツブルク近郊のシュタインバッハという湖畔の小さな町に作曲するための小屋を建て、早朝から午前の間、作曲に専念する日々を送りました。そして交響曲第1番を改訂、交響曲第2番、第3番を作曲しています。ウィーン時代には、オーストリア南部のヴェルター湖畔の町マイアーニックに別荘を構え、その裏山に小屋を建て、交響曲4番~8番を作曲しています。ちなみに晩年は、当時オーストリア領だったイタリア北東部の山地ドロミテのトプラッハで多くの日々を過ごし、交響曲第9番、第10番(未完)を書き上げました。
マーラーの最期
1907年に宮廷歌劇場の総監督を退任し、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場やニューヨーク・フィルの指揮者を務めることになり、活動拠点をアメリカに移しますが、度々ヨーロッパに戻っていました。そして1911年に病が悪化し、ウィーンで亡くなりました。
クラブツーリズムでは、マーラーの活躍の場だったウィーン国立歌劇場でオペラ公演、楽友協会ホールでウィーン・フィル演奏会(交響曲第1番)を鑑賞するツアーをご用意しています。勿論ウィーンのマーラーゆかりの地もご案内しまします。また「山本講師同行ツアー」では、自由時間を利用してご希望の方々を、講師がリング内、周辺の音楽家ゆかりのスポットへも徒歩にてご案内しています。
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