日本でも大人気の三国志!クラブツーリズム独自の視点から三国志のその魅力を探ります!初めて三国志を学ぶ方も、三国志を様々な角度から深めたい方も楽しめる情報満載でご案内する本シリーズ。第10回目は、前回に引き続き三国志の英雄「曹操」に焦点を当てていきたいと思います。(2022年1月11日更新)
画像: 関羽が堅守した荊州城(イメージ)

関羽が堅守した荊州城(イメージ)

皆様、こんにちは!クラブツーリズム中国五千年倶楽部を担当しております王と申します、どうぞよろしくお願い致します。
さて、前回では曹操の腹黒で冷血な一面と、チャンスを見抜く「慧眼」(けいがん)を持つ一面が分かる3つの名言をご紹介しましたが、今回は5つの名言を通じて、更に曹操の「真相」を探ってみたいと思います。

龍たるものは、大きくもなれるし小さくもなれる、昇ることも潜むこともできる
~龍、能大能小、能昇能隠

第4回目のブログに出た『酒を煮て英雄を論じる』の物語にも軽く触れたこの曹操の名言ですが、今も多くの人の座右の銘になっているので、今回はもう少し詳しくお話を致します。

198年、曹操が劉備と手を組んで呂布を倒した後、居場所のない劉備を連れて一緒に許都(現在の河南省・許昌市)に戻りました。その後の劉備は毎日庭で野菜ばかりを作って政治に無関心な振りを見せていましたが、曹操は決して劉備がずっと人の下で大人しくする人ではないと思いました。

ちょうど梅が青く実る季節のある日、曹操が庭で一緒にお酒を飲もうと劉備を誘い、劉備の本心を探ろうと試みました。お酒がいい具合に入った頃、突然空模様が急変し、ゴロゴロと雷が鳴り響きたちまち龍のような形の雨雲が現れてきました。激しく流れる雨雲を見上げながら曹操が劉備にこう語りました。

「龍は、大きくもなれるし小さくもなれる、昇ることも潜むこともできる。大きくなれる時は雲を起こして霧を吐き、小さくなった時は塵(ちり)や芥(あくた)に身を隠す。龍は昇れば凄まじい姿で宇宙までも舞い上がって飛翔し、隠れる時は波間にひっそりと潜伏もする。ちょうど春が深まる今は龍が時季に応じて変化しようとしており、まるで高い志を持つ人が天下を自由に縦横するのと同じだ。龍たるモノは、正しく人間の英雄に称えられる!」

画像1: 龍たるものは、大きくもなれるし小さくもなれる、昇ることも潜むこともできる ~龍、能大能小、能昇能隠

曹操は、後漢から新しい時代へ移り変わる当時を「春が深まる季節」に例えています。そして、「大きくも小さくもなれ、昇ることも潜むこともできる」、つまり「失意の時は耐え忍び、得意の時は大いに腕前を振るう」と、どのような環境にも順応できる人こそが本物の英雄だと曹操は語ったのです。

ちなみに、曹操が龍の話をした後、劉備に英雄と思う人の名前を挙げてもらいました。劉備の口から袁紹(えんしょう 大軍閥)とかの名前を聴いた曹操は首を横に振って全部否定し、この世の英雄は劉備と自分だけだと言いました。

画像2: 龍たるものは、大きくもなれるし小さくもなれる、昇ることも潜むこともできる ~龍、能大能小、能昇能隠

198年の劉備は、まだ地盤もなく曹操に身を寄せ、大人しく野菜作りをする毎日のようですが、自分と同じ高い志を持つ劉備がただ「失意な時期」で「小さくなって耐え忍んでいる」と曹操は考えていたんですね。一方の曹操は、すでに「天子を持って諸侯を命ずる」という「得意の時期」で、宇宙に舞い昇った龍のように天下を自由に縦横し、大いに腕前を振るっていると言えますね。

では、曹操も「耐え忍ぶ」時はあったのでしょうか。個人的な意見になりますが、曹操が最後まで皇帝になるのをずっと我慢していたと思います。

曹操が190年に三国志の表舞台に出てから、196年に後漢の献帝を迎え入れ、200年に大軍閥の袁紹も倒し、そしてとんとん拍子で207年についに中国の北方地域をほぼ統一しました。その後、西の西涼(現在の甘粛省)と関中(現在の陝西省あたり)も抑え、216年、曹操が後漢の献帝に魏王の位を授けられました。(魏王は皇帝の下、群臣と諸王の上というポジション) 周りから皇帝になろうと数度も勧められ、そして呉の孫権からも曹操を皇帝に擁立する書簡が送られてきましたが、曹操は全部断りました。

「天下を治めること」を志にする曹操は、すでに国の実権を握り、皇帝になろうと思えばなれたはずですが、何故ずっと我慢して皇帝にならなかったでしょうか。その理由について以下を考えられます。①曹操は漢王朝を復興するという大義名分で兵を起こしたため、もし自分が新たな王朝の皇帝になったら、それが嘘になり民心を失うから。②197年、大軍閥の袁術(えんじゅつ 袁紹の異母兄弟)が自ら皇帝になった時、後漢に忠実な官僚や軍閥からの攻撃を受けた先例があったので、曹操は二の舞を演じたくないから。(少なくとも皇帝になることは、ライバルの孫権と劉備にとって自分を攻撃するとっておきの口実になる。)③劉備と孫権を征服するまで、後漢の献帝を利用する価値はまだあるから。つまり、「天子を持って諸侯を命ずる」ことができれば、正々堂々と最大限に国の人材・財産・軍事力を自分の勢力拡大に使えます。よって、曹操は死ぬまで、「大きくなって宇宙に舞い上がって飛翔する龍」のように見えましたが、実は「ずっと波間にひっそりと潜伏していた」とも言えます。曹操は、「皇帝」という最高権力者の「冠」に誘惑されず、しっかりと曹氏勢力の拡大に終始しました。言い換えれば、曹操は息子の曹丕(そうひ)のために準備を整い、皇帝になるチャンスを次世代に譲り、ずっと最後まで耐え忍んだのです。

220年の3月に曹操が洛陽で病死し、その9か月後に、曹丕は強制的に後漢の献帝に帝位を譲らせ、魏を建国し初代皇帝になりました。そして、曹操が魏の「太祖武皇帝」と追諡(ついし 贈り名)されました。

ちなみに、「龍は、大きくもなれるし小さくもなれる、昇ることも潜むこともできる」この曹操の名言は、現在、職場で冷遇され、または官界で不遇に陥った時、当事者自身が自分に言い聞かせる言葉、または周りの人が当事者を慰める言葉としてよく使われます。例:龍たるものは、大きくも小さくもなれる、昇ることも潜むことむできるから、今は我慢時だ!チャンスが来た時にまた本領を発揮しよう!

袁紹が強かった時には、わしでさえ自身を保つのは難しかったから、ましてや他人はなおそうだった。
~当紹之強、孤犹不能自保、況他人乎

さて、「天子を持って諸侯を命ずる」曹操は、200年に大軍閥の袁紹との対決に挑みました。これは三国志の三大戦いの一つ目の官渡(かんと)の戦いです。曹操が袁紹の旧配下である許攸(きょゆう)から得た情報で袁紹の食糧庫を急襲し、ついに袁紹軍の本陣まで攻め込んできました。鎧も兜も付ける暇がなく慌てて逃げ去った袁紹の陣屋から、曹操側の一部の文官武将がこっそりと袁紹に送った書簡も見つかりました。一人の側近が「書簡をよく調べ、裏切り者を捕まえて斬首しよう」と曹操に進言しますが、曹操は上記の言葉を語り、書簡に目向きもせず全て燃やすようと命じました。

画像: 袁紹が強かった時には、わしでさえ自身を保つのは難しかったから、ましてや他人はなおそうだった。 ~当紹之強、孤犹不能自保、況他人乎

この出来事から曹操は部下の立場をよく理解でき、寛容で度量の大きい人であることが分かりますね。一方の袁紹ですが、官渡の戦いの前、曹操と戦うべきではないと進言した田豊(でんほう 文官)をまず牢獄に投じました。そして敗北した後、「田豊の言うことを聞かずに大負けしたから、天下に笑われる」と、袁紹は自分の不面目を隠すため真っ先に田豊を殺したのです。また、190年、袁紹が盟主として18人の諸侯と共同で董卓を討伐する際、呂布を撃退した劉備と関羽ら(当時まだ公孫瓚の配下で無名だった)を見下していましたね。その兄弟の袁術も、勢いよく洛陽を攻め落とそうになった孫堅勢の台頭を恐れて、わざわざ食糧の供給を滞ったりしていました。

「自分の力は大軍閥の袁紹に及ばない時期、自分自身も命を守るのは精いっぱいでしたので、ましてや部下たちはなお袁紹を恐れていたはず」と、曹操のこの言葉は、今マネジメントの教えとしても活用されています。つまり、リーダーと言うのは、部下の状況を理解し、多少の過ちを大目で見てあげられる「包容力」を持つべきですね。

老いた駿馬は飼い葉桶に伏すとも、志が千里にある
~老驥伏櫪、志在千里  

200年、官渡の戦いで曹操は僅かの兵力で自分より10倍の袁紹大軍を破り、史上有数の「弱」が「強」を制した戦績を創りあげました。曹操はその勢いで更に北上し、逃亡する袁紹の息子たちも撃ち破り、207年に今の遼寧省東部で活動する北方民族の烏桓(うかん)も征服しました。約8年かけて曹操がついに中国の北方地域をほぼ統一し、凱旋した後に『亀虽寿』という詩を詠いました。

神亀虽寿,犹有竟時。騰蛇乘霧,終為土灰。
老驥伏櫪,志在千里;烈士暮年,壮心不已。
盈縮之期,不但在天;养怡之福,可得永年。幸甚至哉、歌以詠志。

詩の大体の意味:人は誰でも死ぬ、だからこそ生きている間は夢実現に全力を尽くすべき。寿命は天命によるだけでなく、心身のバランスを取れれば命の長短って自分でも決められるんだ。

画像: 老いた駿馬は飼い葉桶に伏すとも、志が千里にある ~老驥伏櫪、志在千里

この詩の真ん中の二句、「老驥伏櫪,志在千里;烈士暮年,壮心不已」は、今でも人々によく口にされています。詳しく見てみましょう。

「驥」とは駿馬のこと、「櫪」は飼い葉桶、「烈士」とは真なる立派な男、「暮年」は晩年のこと、「壮心」は挑戦する意欲/チャレンジ精神。「不己」とは「已まない」意味。 直訳しますと、老いた駿馬は飼い葉桶に伏しても、千里を疾走する志を持っている、気骨のある男は年をとったけど、挑戦する意欲はやまない。

この詩を書いた時の曹操は53歳、平均寿命がまだ短い1800年前の時代では、曹操はすでに「天命を知る」五十を過ぎた「老人」です。曹操は自分を老いた駿馬と例え、歳をとっても中国統一する大きな志を持っており、それを実現したい気持ちはやまないと、この詩を通じて自分の抱負と意気込みを表しています。

この詩を書いた翌年の208年に、早速、曹操が南下し劉備と孫権に挑みました(赤壁の戦い)。が、劉備と孫権の連合軍に敗れてしまい、それでも夢を諦めない曹操は今度目を西に向け、自ら軍を率いて漢中と西涼(現在の甘粛省)の攻撃に臨みました。 漢中を攻め落とさなかったが、代わりに西涼を治めることができました。以降も曹操が軍を指揮し南は孫権、南西は劉備、北は反乱する匈奴と烏桓(うかん)(現在の遼寧省東部一帯で暮らしていた少数民族)と戦い、220年、66歳で亡くなるまで中国統一の夢実現に奔走し、生涯現役でした。

画像: 190年、陳留(現在の河南省・開封)という町より兵を起こし、董卓の討伐を呼びかけた曹操が、24年後の214年、西涼の馬超(ばちょう)も撃退し、中国の北方地域を統一した。

190年、陳留(現在の河南省・開封)という町より兵を起こし、董卓の討伐を呼びかけた曹操が、24年後の214年、西涼の馬超(ばちょう)も撃退し、中国の北方地域を統一した。

また、曹操が詠った「老驥伏櫪、志在千里」(ろーじーふーり、じーざいちぇんり)のこの一句は、今の中国では、年配者の誕生日祝いの時にもよく使われています。「年を取っても高い志を持っているぞ!」という「曹操精神」があれば、何歳になっても若々しく自分らしい人生を送られるという意味が込められています。

そして、曹操は軍事や政治の手腕が優れていただけでなく、文学にも長けていました。曹操は後漢末~三国時代に盛んだった建安文学(※)の創始者であり、第四回のブログでご紹介した「短歌行』など20余りの詩を後世に残しました。曹操の創った詩は、当時の民謡の一部を取り入れて、四・五・七文字から一句となるスタイルの「楽府(がふ)詩」と呼ばれています。この楽府詩から、後に日本でも知られる漢詩の一種・五言詩が生まれたとされています。曹操は、東は山東半島、南は長江、西は甘粛省、北は今の遼寧省までと、広い中国の大地を駆け回って戦ったこともあり、彼の詩は大らかで自由奔放、そして率直に感情を表す特徴があります。ご興味の有る方は、ぜひ読んでみたらいかがでしょうか。

<豆知識> 建安文学とは?
建安は後漢の献帝の年号で、後漢王朝の末期~魏王朝の239年までの文学を建安文学と呼ばれています。創始者が曹操、代表作家は三曹(曹操とその息子の曹丕、曹植)。建安文学の作品は、情熱的で反骨精神が旺盛、戦乱により人々が抱える悲しみや、不安、そして不遇を題材にしたものが多い。

唯(ただ)才能さえ有れば、是れを挙げ、わしが採用する
~唯才是挙、吾得璽用之

208年、中国の北方地域をほぼ統一した意気揚々の曹操が南下し、長江中下流域を地盤とする孫権を攻めてきました。しかし、孫権と劉備が同盟を結び、諸葛孔明と周瑜(しゅうゆ 呉の最高司令官)が巡らした数々の計略も功を奏したので、わずか5万の孫権と劉備連合軍が曹操80万の大軍を赤壁で大破しました。惨敗した曹操は失敗の原因を分析した結果、水上の戦いに不慣れとは言え、やはり諸葛孔明のような優秀な人材が欠けているのも敗因の一つと思いました。そこで、曹操が三度にわたり『求賢令』(人材を公募する通達)を出しました。「唯(ただ)才能さえ有れば、是れを挙げ、わしが採用する」がその二回目の『求賢令』に出た言葉です。

さて、人材を重視する事例として、劉備が諸葛孔明を三度も訪れた「三顧の礼」の物語は有名ですね。呉の孫権も人材を獲得するために「招賢館」(人材を募集する組織)を設立しました。曹操は民間に向けた『求賢令』を出して、身分や出身を問わず才能あれば積極的に採用しました。また、自分に帰順した元敵側の有能な人も文官武将問わず多く起用していました。曹操の覇業達成に大いに貢献した五大策士(ブレーン)の内、諸葛孔明並みの頭脳があると言われる郭嘉(かくか)などの4人は最初は他の軍閥や諸侯に仕えていました。「人を使うからにはその人を疑ってはならない、人を疑うならその人を用いてはならない」をモットーにする曹操は、三国の中で一番多くの人材を擁していました。

では、曹操がいかに人材を重要視していたのかについて、官渡の戦の時に起きた有名な物語を一つご紹介します。

曹操の五大策士の一人でもある許攸(きょゆう)ですが、元々大軍閥の袁紹に所属していました。曹操と袁紹が官渡で対決した際(官渡の戦 200年)、許攸は袁紹にこう進言しました。「曹操の兵力はそもそも多くないし、今ほぼその全員が官渡に集中している。逆に曹操の拠点である許都の方は守衛が脆弱になっているので、別部隊を出して許都を攻撃すれば、曹操が前も後ろも挟み撃たれてその内必ず自ら撤退する」。ところが、袁紹はこの提案を採用するどころか、逆に「これは幼馴染である曹操を救うための許攸の仕掛けだ」と疑いました。呆れた許攸は「器の小さい袁紹がとうてい偉業を達成できない」と諦め、曹操に仕えることにしました。許攸が自分のところに来たと聴いた曹操は、嬉しい余り、既に寝たにも関わらずベッドから跳び上がり、靴も履かず裸足で外へ飛び出て、わざわざ許攸を出迎えに行きました。

官渡の戦いの当初、袁紹は用意した十分な食糧を持って持久戦で曹操を撃退する戦略を取っていたため、曹操軍が勇敢に戦っても僅か2万の兵力ではそう簡単には勝てませんでした。そして時間が経つにつれ、曹操軍の食糧も残り三日分しかないという危機的な状況でした。窮地の曹操は、「袁紹の食糧庫の守衛官は酒好きで守りも緩い」という情報を許攸から得て、早速5,000の兵を出して夜中に袁紹の食糧庫を急襲しました。食糧供給が断たれ、釜底抽薪(ふていちゅうしん※)された袁紹軍が乱れ始め、曹操軍は劣勢から一気に優勢へと逆転できました。

許攸という人材を得たことにより、官渡の戦いでは曹操が自分より10倍も多い袁紹大軍を破り、袁紹勢力をいっぺんに弱体化させました。そして曹操が群雄の中の一番の実力者となり、中国統一に向けて大きく一歩を前進しました。※釜底抽薪(ふていちゅうしん):兵法三十六計の一つ。釜底から薪を抽く(ぬく)意味。釜の下の薪を抜けば食事は炊けなくなること。つまり、正面から戦うのではなく、相手の致命的な弱点を狙って撃てば一気に勝ち取れるという計略。

画像: 唯(ただ)才能さえ有れば、是れを挙げ、わしが採用する ~唯才是挙、吾得璽用之

<余談> 曹操が裸足で迎えた許攸ですが、曹操の幼馴染でもあります。官渡の戦いの後、許攸は常々「自分のお陰で曹操が袁紹に勝った」と手柄を自慢し、そして公の場でも曹操のことを幼名で呼んだりしていました。許攸のこの傲慢っぷりは身を亡ぼす災いとなり、4年後の204年に、許攸が気性の荒い曹操の名将・許楮(きょちょ)に殺されてしまいました。曹操が許攸を手厚く葬ったと『三国演義』に書いてあります。

曹操が元敵側の人材でも信用して重用し、このような良い結果となった時もあれば、裏目に出る時もありましたね。

赤壁の戦い(208年 三国志三大戦いの二つ目)の時、呉の最高司令官の周瑜(しゅうゆ)が黄蓋(こうがい 呉の名将)を激しく殴るという「苦肉の計」を巡らし、黄蓋は曹操宛に「若造の周瑜に殴られたゆえ、曹操殿に服従する」偽降伏の手紙を送りました。黄蓋のような人材を獲得できると曹操が喜んでばかりで手紙を疑わおうともしませんでした。その後、黄蓋の油と硫黄を満載した船が曹操水軍の軍営に簡単に入ることができ、曹操軍は火攻めされて惨敗してしまいました。

他、関羽も一つの例ですね。関羽という人材を自分に仕えさせようと、数カ月にわたり曹操が関羽の為に大小の宴会を絶えずに開き、金銀財宝に赤兎馬までも贈りました。しかし、関羽が劉備の居場所を知った後すぐ曹操から去り、しかも道中で阻んできた曹操の6人の武将も殺しましたね。(詳しくは第五回のブログをご覧ください)

「唯(ただ)才能さえ有れば、是れを挙げ、わしが採用する」、曹操のこの名言を「才能あれば人柄は問わない、人材を得るには手段を問わない」と言うふうに解釈する人も多いです。確かに、第七回のブログに出た徐夫人の物語はこの解釈の良い裏付けと言えますね。(物語の詳細については第七回のブログをご参照ください)

家に居る時は親子であっても、仕事の場では君臣の関係 
~居家為父子、受事為君臣

これは218年、北方の騎馬民族・烏桓(うかん)の反乱を平定する前に、曹操が息子の曹彰(そうしょう)に話した言葉です。親子であっても、国の仕事を受けたら上下関係であり例外は無しと、曹操の秩序と法令を厳に守る一面が分かる名言です。では、曹操が身を持って法令を守った有名な物語をご紹介します。

第6回のブログに出た苑城(えんじょう)(現在の河南省・南陽)の戦いでは、曹操が長男と勇将の典韋(てんい)、そして愛馬の絶影(ぜつえい)を失いましたが、翌年、曹操が再び苑城を攻撃することにしました。前回惨敗の教訓もあり、曹操が出発前、上は自分から、下は一般兵士まで厳しく軍令を遵守するようと念を押しました。

ちょうど麦の収穫時期、曹操は「麦を踏んだ者は容赦なく斬首する」と令を出しました。兵士たちが麦を踏み荒らさないよう細心の注意を払いながら、わざわざ遠回りして行軍していた時もありました。曹操も勿論そうしていましたが、ある日、畑の近くを通った時、突然麦畑から一羽の鳥が鳴きながら飛び出てきて、びっくりした曹操の馬が畑に乱入し東や西へと奔り回ってしまいました。

なんとか馬を落ち着かせて止めた曹操が、周りに直ちに自分を斬首せよと命じました。「あくまでもアクシデントに過ぎない」、「軍には曹操殿は居なければ駄目だ」と将校らが必死に止めますが、曹操は、「軍令の前では、一視同仁だ!殺してくれないならば!」と剣を出して自刃しようとしました。慌てた文官将校らが全員跪いて「軍を統率する曹操殿が死んだら困る」と懇願し、郭嘉(かくか 名軍師)の機転利いた説得もあり、曹操が首の代わりに自分の髪を切りました。

古代の中国では、髪は手足同然で親から授かった体の一部という認識が一般的で、男女問わず髪の毛を切らず一生大事にする習慣がありました。曹操は自ら身体の一部である髪を首の代わりに切ったことを通じて、軍令はいかなる場合でも違反してはいけないと兵士たちに見せ示しました。それ以降、曹操軍は上下問わず一層軍令を厳守するようになりました。

画像: 家に居る時は親子であっても、仕事の場では君臣の関係 ~居家為父子、受事為君臣

国のナンバーツーの立場の曹操は息子にも自分にも厳しく、身を持って範を示し法令を固く遵守する「鉄面」の人ですね。曹操のこの名言を読んで、今の世の中について色々と考えさせられますね。

クイズ
残された曹操唯一の真筆は誤字脱字?!

画像6: え~?これも三国志?!<第10回/最終回>『名言が語る三国の英雄~曹操編②』【好奇心で旅する海外】<歴史の時間>

曹操が漢中を攻め落としてから、近くの観光名所の石門を訪れました。川の激流が岩壁に激しくぶつかり、粉雪のように降りかかる水しぶきの絶景に感動した曹操は筆を取り、「飛び散る雪」という意味の二文字「滾雪」を書き、後にその岩壁に刻まれました。写真の右はという漢字ですが、何故さんずい(氵)は無いのでしょうか?その理由を当ててみてくださいね。正解は答えた後に画面に出てきます。

  • A:曹操が書き間違えた
  • B:字を刻む人が彫り忘れた
  • C::水しぶきが天然のさんずい(氵)になるから、曹操はあえて書かなかった
  • D:中国を統一できたら、残りのさんずい(氵)を書きつけると曹操が言った
  • A:曹操が書き間違えた
    15
    43
  • B:字を刻む人が彫り忘れた
    6
    18
  • C::水しぶきが天然のさんずい(氵)になるから、曹操はあえて書かなかった
    53
    149
  • D:中国を統一できたら、残りのさんずい(氵)を書きつけると曹操が言った
    25
    70

正解はCです。曹操がこの二文字を書いた後、さんずい(氵)が欠けていることに周りの人は気づきましたが、彼のメンツを考えて誰も指摘しませんでした。曹操が戸惑う皆を見て、からから笑ってこう語りました。「水しぶきが天然のさんずい(氵)になるので、さんずい(氵)を書くと逆に蛇足になる」。この曹操唯一の真筆は、現在、漢中市博物館で見ることができます。

正解でしたか?2回にわたって8つの名言を通じて曹操についてお話いたしました。三国志は曹操を悪者として書かれていると言われていますが、二回のブログを読んで皆様の曹操に対する印象は変わったでしょうか。
温厚で優しい劉備、奇才の軍師・諸葛孔明、忠義な関羽などのような、割と「単純」なキャラクターの英雄と比べ、曹操の方は時には腹黒で冷血、時にはずる賢い、大局を見る目、有言実行、即決即行、心の広さ、我慢強さ、文学の才能、そして身分や出身より才能を重視する人材ポリシーなど、曹操はいろんな「顔」を持っていることが分かりますね。三国志に登場する約1200名の人物の中で、このような多面性を持つ曹操は、一番「人間味」があるのではないでしょうか。
また、読者自身の人生経験の積み重ね、或いは三国志を読む時の心境によって、英雄たちに対する見方が変わったりなど、きっと皆様も同じような体験があるかと思います。そして、登場人物の生き様から、私たちの普段の生活にも活かせる知恵が多く秘めているのも三国志の魅力の一つですね。これこそが、時代を超えても国境を越えても、三国志は色褪せず人々に愛読される理由と言えるでしょう。

なかなか収束が見えないコロナ禍…季節が変わりゆく中で、いろんな「変化」を迎えることも多いかと思います。「龍たるものは、大きくも小さくもなれるし、昇ることも潜むこともできる」、「駿馬は老いても、志が千里にある」、曹操のこの二つの名言を時には思い出し、前向きな気持ちで「明日」を迎えたいですね。
今回の記事で、歴史の時間「え~?これも三国志?!」は最終回となります。時代や国を越えて愛される三国志について少しでも興味・関心が深められていたら幸いです。

【え~?これも三国志?!】全10話好評公開中!

第1回「導入編/熟語と諺から読む三国志」
第2回「美味しい三国志」
第3回「お酒が造った三国志 一杯目」
第4回「お酒が造った三国志 二杯目」
第5回「名馬が踏み開いた三国への道①」
第6回「名馬が踏み開いた三国への道②」
第7回「三国志を美しくした女性たち①」
第8回「三国志を美しくした女性たち②」
第9回「名言が語る三国志 曹操編①」
第10回「名言が語る三国志 曹操編②」

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画像10: え~?これも三国志?!<第10回/最終回>『名言が語る三国の英雄~曹操編②』【好奇心で旅する海外】<歴史の時間>

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