皆様、こんにちは!クラブツーリズム中国五千年倶楽部を担当しております王と申します。どうぞよろしくお願いいたします。
さて、第7回では、絶世の美人の貂蝉(ちょうせん)、大義に命を捧げた徐夫人の話をいたしました。第8回では、三国志では珍しい、始まりと終わりのあるラブストーリーの主人公、劉備の奥さんの孫尚香(そんしょうか)、そして戦場で大活躍した南蛮の王妃・祝融(しゅくゆう)夫人の物語を通じて、三国志を楽しんでいただきます。
今回のブログに出た物語の舞台(イメージ)
ただ愛する劉備と最後まで人生を歩みたいだけ!~孫尚香(そんしょうか)
孫尚香は呉の孫権の妹で、幼い頃、父親の孫堅が37歳で戦死した後、兄と母親のもとで育ちました。孫尚香は、女性として身に付けるべき女工(じょこう)よりも武術が好きで、自分だけでなく、身辺100名あまりの侍女たちにも武芸を学ばせました。居間から寝室まで並ぶ各種の兵器に囲まれて、天下の英雄にしか嫁がないと宣言した孫尚香は、剣や矛を自在に操り、19歳のハツラツとした美しい女性へと成長しました。
一方、208年、孫尚香の兄の孫権は、劉備と同盟を結び赤壁で80万の曹操大軍を大破した後、しぶしぶと劉備に「居場所」として荊州(けいしゅう 現在の湖北省・荊州市周辺)を貸し出すことになりました。荊州は長江の中流地域に位置し、農業と水産業が発達しており、更に北は曹操側の襄樊(じょうはん)に接する軍事要衝でもあります。劉備が荊州を借りてから、ここを拠点に次から次へと近くの長沙や桂陽など4つの町を攻め落としました。これで劉備も自分の地盤を獲得できたと思った孫権が、早速荊州を取り戻そうと使者を何度も劉備側に派遣しました。しかし、毎回諸葛孔明の言葉巧みで、どの使者も手ぶらで戻ってきました。209年、劉備の奥さんが亡くなったのを知った呉の最高司令官である周瑜(しゅうゆ)が、荊州の返還問題に頭を抱える孫権にこう提案しました。「妹さんの孫尚香を劉備に嫁がせると偽り、劉備を呉に呼んでから牢獄に投じて、引き換えに荊州を返してもらう。もし返してくれなければ劉備を殺す。」
周瑜の「妙案」に同意した孫権が早速仲人を劉備のところに派遣しました。「縁談」を聴いた劉備は、この三年間で妻二人を相次いで失くしたこともあり、もう50近くの自分がまさか「敵」である孫権の妹と結婚するものかと、手も首も横に振って断ろうとしました。しかし、この縁談話は孫権側の「美人の計」と見破った諸葛孔明は、この計略を逆用し、結婚して一層孫権との「同盟」関係を固めるべきと劉備を説得しました。209年の10月、孫尚香との結婚に同意した劉備は、趙雲(ちょううん 名将)と500名の兵士を連れて呉に赴くこととなりました。諸葛孔明が見送る際、妙案が入った三つの錦袋を趙雲に渡し、呉に着いた時、歳末、ピンチの時にそれぞれ開けるようと念を押しました。
劉備一行が長江を下り呉の南徐(なんじょ 現在の江蘇省・鎮江)に着いたところ、まだ孫権が行動を起こす前に、趙雲が早速一つ目の錦袋を開けました。諸葛孔明の用意した妙案を読んだ趙雲は顔に笑みをこぼし、兵士にメデタイ赤色の服装を着替えさせて、婚礼用品の買い出しに街に行かせました。500名の兵士たちが南徐の町をひっくり返すかのように、「劉備と孫尚香がもうじき結婚するよ」と大げさに騒ぎながら歩き回りました。当時の女性は16歳になったらもう結婚するのが普通ですが、孫尚香は目が高すぎて19歳になってやっと結婚できる、しかも天下の英雄と称される劉備と!南徐の人々は大喜びし、あっという間に町にはもう知らない人はいないくらい噂が広がりました。更に、劉備が呉の名人も訪れ、表敬と言いながらも「自分が孫尚香との結婚のため呉に来た」とわざわざ漏らしました。
ついに、この噂が孫権の母親の呉国太(ごこくたい)の耳に入りました。孫権が慌てて「あくまでも荊州を取り返すための計略に過ぎない」と呉国太に明かしますが、何の相談もせず勝手に娘の縁談を決めた孫権に呉国太は激怒しました。しかし、既に噂が広がっており、もしこの結婚を却下すれば娘には大きな恥をかけることになり、呉も世間の笑いものになると呉国太も危惧します。悩んだ結果、せっかくなので、皇帝の親族と名乗る劉備はどのような人物なのか、とりあえず自分の目で確かめたいと呉国太が孫権に言い、甘露寺(かんろじ 現在江蘇省・鎮江市内の北固山公園内)で劉備に会うことを決めました。親孝行の熱い孫権は悔しいけど、母親の命令には逆らえないまま面会の準備に取り掛かりました。
あくる日に、劉備は髭を丁寧に剃り、髪もきれいに束ね、鎖帷子(くさりかたびら)を着込んでから晴れ着を身にまとい、用心しながら趙雲の同伴で甘露寺に現れました。幸運の印とされる大きな耳(中国では福耳と言います)が肩まで垂れ、膝まで届きそうな長い両手、50近くには全く見えないし、立ち振る舞いには王者の雰囲気がある劉備を見て、孫権も呉国太も心の中で「さすが尋常じゃない風貌だ!」と驚きました。すっかり劉備のことを気に入った呉国太は吉日を選んで結婚式を行うようと孫権に命じました。
劉備は孫権に殺される恐れを抱えながらもなんとか無事に結婚式を終えました。夜、劉備がやっと孫尚香と初対面しますが、孫尚香の屋敷に一歩を踏み入れたら、なんと各種兵器があちらこちらに置かれており、侍女たちも刀や剣を身に付けているのを見て、劉備は髪の毛が立つほどの恐怖に襲われて両足を止めました。恐れて動けない劉備の様子を侍女から聴いた孫尚香は、「今まで戦場で人生を送ってきた人なのに、こんなモノで怖がるなんか!」とからから笑いながら、兵器を全部撤収させ、自分の剣も外しました。二人はようやく対面し、劉備は明るい性格で美しい孫尚香のことを好きになり、孫尚香も母親が言う通り、30近く年上だけど若々しく見えて落ち着きのある劉備のことに惚れました。
一方、偽りの縁談話で劉備を呉に呼び、強制的に荊州を返させると打算した孫権は、計画が全部泡になっただけでなく、妹まで劉備の女になったことを悔しがり、再び周瑜に打開案を問い求めました。周瑜はこう進言します。「想定外の展開になったが、劉備は藁草履(わらぞうり)を売り歩く貧乏人の出身なので、立派な新居を建ててあげ、若妻の孫尚香が傍で、金や食に不自由のない贅沢な生活をすれば、いずれその内「漢王朝を復興する」初心も忘れてしまう、そうなれば荊州は無論のこと、劉備というライバル自体も取り除ける」。孫権は早速この新提案を採用し実行に移しました。
孫権と周瑜が望む通り、劉備は衣食住とも贅沢な日々を過ごし、孫尚香と酒に詩、琴弾に剣舞との生活を満喫して覇業のことも諸葛孔明たちのことも口にしなくなりました。このような状況が年末まで続き、趙雲が諸葛孔明からもらった二つ目の錦袋を開けました。翌日、孫尚香と歓談する劉備に、趙雲が小さな声でこう伝えました。「赤壁の戦いで惨敗した曹操が汚名返上のため、50万の大軍を率いて荊州にやってきた」。この話にびっくりした劉備がやっと夢から目覚めたように顔色も失いました。劉備は孫尚香の前で跪き、「国が危機に面している、貴方を危険な場所には連れて行けないので、俺だけ荊州に戻るのを許してくれ!」と泣きながら別れを告げますが、孫尚香は、「先の趙雲将軍の話はすでに聴こえた。結婚した以上死ぬまで殿様についていく覚悟はもうできている。殿様の国が危ないなら妻の自分も同行すべきだ!」とはっきりした口調で答えました。劉備は涙をぽろぽろ流して感動し、孫尚香の手を握り、今のような実質軟禁状態からどう脱出できるかと悩みを明かしました。孫尚香は、元旦の日を狙って、長江の岸で先祖のお参りする口実で呉を出て荊州に戻ろうと計画しました。
元旦の朝を迎え、孫尚香と劉備は呉国太に新年の挨拶をしてから急いで長江の船着場へ走りますが、発覚した孫権が4名の将校と数千人の兵士に追いかけさせ、更に周瑜も事前に道中に将兵を待伏せさせていました。後ろも前も呉の兵士で、もはや逃げ場はもう無いと絶体絶命の劉備が天を仰いで嘆きますが、趙雲が諸葛孔明から託された錦袋の事を明かしました。三つ目の錦袋の妙案を読んだ劉備は早速孫尚香の乗る馬車に行き、泣きながらこう訴えました。「貴方との結婚はそもそも孫権と周瑜が巡らした美人の計で、貴方を餌にして俺を釣り、荊州を引き換えるつもりだった。それを知ったにも拘らず、俺が貴方のことを慕って危険を冒して結婚に踏み込んだ。ところが、孫権と周瑜が諦めず今度は俺を殺そうと企んでいた。仕方なく貴方に曹操が荊州を攻めに来たと嘘を言った。今、後ろに追いかけてくる孫権の手下、そして前方に周瑜の兵が待ち構えている、ピンチの俺を救うのは貴方しかない。もし、貴方もお兄様たちと同じ俺の命を望むなら、俺がここで自刃してこの二カ月あまり夫婦として共に過ごした恩を返すしかない。」孫尚香は、「荊州を取り戻すために兄貴が自分を利用した以上、もう会うことは望まない」と激怒し、劉備を先に行かせ、趙雲と二人だけ最後に残って呉の兵を阻むことにしました。続々とやってきた呉の将兵の前に、孫尚香は顔に少しも怖がりを見せず、剣を握って堂々と立ち構え、叱責に脅迫と知恵を絞って見事に呉の追手を退治し、劉備と無事に船に乗って荊州に辿り着きました。
荊州に着いてからの孫尚香は、劉備の妻、孫権の妹、この二重の身分で蜀と呉の板挟みにされながら、継母として劉備の唯一の息子・劉禅(りゅうぜん)の世話にも努め、一年余り劉備と夫婦そろって暮らしていました。211年、劉備が孫尚香を荊州に残し、西川(現在の四川)に出征しました。しばらくすると、孫尚香のところに「母親」からの一通の手紙が届きました。「病気になったゆえ、死ぬ前に一面だけでも良いから、ぜひ孫の劉禅を連れて会いに来てくれ」と。孫権と周瑜が書いた偽の手紙と知らない孫尚香は、慌てて幼い劉禅を連れて船に乗り呉に見舞いに行こうとしますが、追いかけてきた趙雲と張飛に止められ、「夫人が帰っても良いが劉禅だけは残せ!」と言われ、やむなく一人で呉に戻りました。元気な母親の姿を見た孫尚香は、劉備の息子を人質にしようと兄の孫権にまた利用されたことに気づいたが、交通不便に孫権の見張りもあり、到底女一人では荊州に戻る術もなく、劉備のことを思いながら孤独な歳月を送りました。
一方の劉備ですが、その後、西川(蜀)を中心に活動し、そして214年に別の女性とも結婚し、荊州に戻ることも孫尚香を迎えに行くこともありませんでした。このように夫婦離れ離れで音信不通の状態が11年も続き、222年、孫権に殺された関羽(劉備の義兄弟)の仇討ちのため、劉備が呉との戦い(夷陵の戦い)を起こしましたが惨敗してしまいました。劉備が戦死したという誤報を聴いた孫尚香は、岸辺で劉備を悼んでから長江に飛び込み、32歳の一生を終えました。(※ちなみに、劉備を破った呉の司令官・陸遜(りくしゅん)がちょうど帰途で岸辺を通りかかったのですが、孫尚香には劉備は死んでいないことを明かさなかったそうです)
最初は明るいハツラツとした少女、次に故郷を捨てても夫の劉備についていく一途な妻、そして劉禅を連れて実家に戻ろうとする継母、最後に夫の「死」を知り自殺する、という、いつもは男性の武勇伝がメインの三国志ですが、孫尚香は読者に活き活きとした女性のストーリーを見せてくれました。
武芸を学び男勝りの志を持っていたとは言え、普通の女性と同じように、孫尚香は美しい愛のロマンスに憧れ、愛する人と人生を歩もうとしましたね。悲しくも彼女は、兄の孫権に政治取引の手段として利用され、また劉備も彼女との結婚を持って荊州という居場所を確保でき、西川を侵攻する力を蓄えることができました。男尊女卑、且つ戦乱の三国時代では、例え高貴な身分で生まれても、孫尚香は政治に利用される運命から逃げられなかったですね。
三国時代の結婚観 曹操は変わり者?!
さて、前回のブログに出た貂蝉(ちょうせん)、そして今回ご紹介した孫尚香は共に政治の犠牲となりましたね。戦略結婚は現代でも存在しますが、政治勢力が乱立する三国時代では、劉備が西川に入ってから、諸侯の一人・劉璋(りゅうしょう)の兄の未亡人と再婚して勢力拡大を図りました。また、呂布も曹操と劉備に攻撃された時、助けを求めるに娘を負んぶして袁術(えんじゅつ、大軍閥)に送ろうとしていました。三国志に出場した55名の女性の9割以上が何かしらと政治に絡んでいました。では、三国時代の結婚に対する意識はどのような状況だったのでしょうか。
今から約2100年以上も前、前漢の武帝が百家諸説から、忠誠・孝行を基本とする儒教を社会の基本的な倫理観と定め普及させ、それによって、君と臣、父と子、夫と妻の上下関係が確立されました。特に、結婚においては、一夫多妻は勿論のこと、離婚して実家に帰る女性は一家にとっての大恥とされ、女性の再婚も節操の欠けた行為とされる意識は根強く、ずっと20世紀の40年代まで続いていました。しかし、この男性中心とした結婚観は、三国時代に入ってから一時乱れていました。まず、家柄の釣り合いを重視するより、女性の出身や身分に関してはそれほど厳しく問われず、夫を失くした女性の再婚に対しても割と寛容でした。魏の曹操はその良い例です。第6回のブログでご紹介した苑城の戦いで、曹操が苑城の元長官の未亡人に手を出したことで、張繍(ちょうしゅう 苑城の城主)からの攻撃を招き、長男の曹昴(そうこう)を失くしました。このことで曹操の丁夫人が激怒し実家に帰って死ぬまで曹操に会わなかったです。一方、曹操は歌妓(舞妓、一説は娼婦)出身の女性と結婚し、後に魏を建国した曹丕(そうひ)、『七歩の詩』を作った曹植など4人の息子が生まれました。そして、曹操は、呂布の部下の未亡人や、何進(かしん 後漢の重臣)の息子の未亡人も側室として娶りました。更に、曹操が大軍閥の袁紹(えんじゅつ)を倒した後、その息子の未亡人を曹丕と結婚させました。
「曹操は人妻好きの変わり者」ということを活かした有名な物語があります。
207年、中国の北方地域をほぼ統一した曹操は、娯楽用に豪華絢爛な銅雀台(どうじゃくだい 現在の河北省・邯鄲市郊外)を建てました。広大な銅雀台の東と西に離れた楼閣が二本の「廊橋」(ろうきょう 渡り廊下の意味)で繋がっており、曹操の息子の曹植は、この二本の「廊橋」を「二橋」と略して有名な『銅雀台賦』(詩の一種)を作りました。
一方、南下してきた曹操に新野(しんや 現在河南省・南陽)から追い出された劉備ですが、孫権と連盟を組んで曹操を撃退しようと考えました。しかし、呉の大臣たちは、曹操に降伏すべきかそれとも戦うべきかと意見が分かれていました。呉にも出兵してもうらため、諸葛孔明が呉に赴き、呉の最高司令官の周瑜をこう説得しました。「曹操が長江までやってくる本当の目的は、天下に名を馳せる呉の美人姉妹の二喬(にきょう ※)を自分の女にしたいだけ!その下心は、銅雀台の完成祝いに曹操の息子の曹植が作った詩・『銅雀台賦』に赤裸々に書かれているよ!」 そして、諸葛孔明がみんなの前でこの『銅雀台賦』を大きな声で読みました。
※二喬:呉の美人姉妹の大喬(だいきょう)と小喬(しょうきょう)のこと。上の大喬は孫権の兄・孫策(そんさく)の未亡人、妹の小喬は周瑜の夫人。
曹植の作った詩
連二橋(にきょう)於東西兮、若長空之蝃蝀
意味: 東西を繋ぐ二本の橋は、空に浮かぶ虹のよう。
諸葛孔明が周瑜に詠った詩
攬二喬(にきょう)於東南兮、楽朝夕之与共
意味: 東南(呉)の二喬を抱擁し、朝夕を共に楽しむ。
つまり、諸葛孔明が、わざと詩の中の「二橋」を呉の美人姉妹の「二喬」に差し替え、改ざんした『銅雀台賦』を詠って周瑜を煽ぎ立てました。自分の愛妻とお姉さんが曹操に侮辱されたことで激怒した周瑜は、その後すぐに、劉備と同盟を組んで曹操を倒すことに同意したのです。
曹操は人妻好きなのかどうかをさておき、数十年間に渡り戦乱が絶えなかった時代なので、多くの男性が戦死し、上流社会から下流社会まで多くの未亡人が現れ、男女のバランスが崩れ、戦いに行ける人は足りなくなったと容易に推測できますね。そういった背景もあって、三国時代は女性の再婚が許されるようになったと考えられます。更に、勝利した側が戦利品として負けた側の未亡人たちを兵士に配っていたとか。
諸葛孔明が率いる蜀の大軍に挑んだ女傑(じょけつ)~祝融(しゅくゆう)夫人
さて、三国志は男性たちの武勇伝というイメージですが、実は唯一戦場で武術の腕前を見せた一人の女性もいました。『三国志を美くした女性たち』の最後に、気分転換に南蛮王の孟獲(もうかく)の奥さん・祝融(しゅくゆう)夫人の話をご紹介いたしましょう。
祝融夫人は、古代の火の神様「祝融」の末裔と言われ、長い槍(やり)を巧みに舞い、得意技は手裏剣、赤い服を着て、赤い巻毛の馬に跨る颯爽(さっそう)な姿の女性です。
劉備が呉との夷陵(いりょう)の戦いで大負けし、蜀の国力も大きなダメージを受けました。その時、南蛮王の孟獲が反乱を起こしました。南蛮は現在の雲南省の南部あたりで、気候が温暖で、稲も年に二回ほど収穫できる肥沃な地域だけでなく、漢方薬、青銅を造るに欠かせない鉛(なまり)の他、銀、翡翠(ひすい)なども多く産出するので、蜀にとっては重要な食糧と資源の産地です。
225年、諸葛孔明が自ら50万の大軍を率いて南蛮に向かいました。しかし、風俗習慣が異なる少数民族に対して、諸葛孔明は武力を最低限に使い、懐柔政策でこの反乱を平和的に治める戦略を取りました。蜀軍が南蛮の反乱軍と5回も交戦し5回も勝ち、毎回南蛮王の孟獲を捕まえました。ところが、孟獲が捕まっても、「所詮偶然の負けだ」との一点張りで、なかなか降伏してくれませんでした。諸葛孔明は、負けを素直に認めない孟獲を毎回ご馳走で持て成してからその度彼を放しました。
6回目の戦いに入りますが、陣屋の前まで差し迫ってきた蜀軍に対して、「もう抵抗の術はない」と孟獲の嘆き声に続いて、「この私が応戦に行く!」と祝融夫人の声が聴こえました。祝融夫人が女子軍団を率いて馬に跨って出陣しました。
初日:祝融夫人が得意の手裏剣を投げ飛ばし、蜀の張ギ(ちょうぎ 武将)の左腕を見事に命中して生きたまま捕まえました、そして、張ギを助けようと追いかけてきた馬忠(ばちゅう 武将)も鎖で馬を転ばせて生き捕まえ、旗を高く掲げて凱旋しました。
二日目:びっくりした諸葛孔明が今度趙雲に祝融夫人と応戦させました。祝融夫人が趙雲に勝てなかったが負けてもせず陣屋に帰ってきました。
三日目:諸葛孔明が名将の魏延(ぎえん)に祝融夫人と応戦させました。開戦したら、魏延が刀を数回振っただけで、もう「負けた」様子で逃げ始めました。祝融夫人は勝ちたい気持ちが先走ってしまい、魏延の偽り負けを見破れずひたすら追うことに集中しました。残念ながら、待ち伏せの蜀軍に馬の足を絡ませられ、惜しくも落馬して捕まってしまいました。
諸葛孔明がまず孟獲と同じようにご馳走で祝融夫人を持て成し、そして捕まった2人の将軍と引き換えに祝融夫人を放しました。最後、南蛮王の孟獲が7回目の戦いに挑みましたが、また蜀に捕まりました。孟獲を放すと諸葛孔明が命令したところ、やっと孟獲は祝融夫人と降伏し、「今後、子々孫々絶対蜀に逆らわない!」と跪いて諸葛孔明に誓いました。
蜀の武将2人も生きたまま捕まえた祝融夫人は、よくも南蛮王の恥を晴らしましたね!趙雲や魏延などの名将とも戦い、祝融夫人が捕まってしまいましたが、その男勝りの英雄っぷりは蜀の将兵たちにも感服させました。そして、いざという時になれば、女性でも戦場に赴き国を守ると、蜀軍に果敢に挑んだ祝融夫人は、後世の中国の女性にも大きな影響をもたらした。日本でも人気だったアニメ映画の主人公・木蘭(ムーラン)も彼女の影響を受けた一人と言われています。
現代の中国女性は「天の半分」を支えている?!
男尊女卑の考えが封建社会と共に約2,300年も中国に存在していました。1949年、新中国が成立してから、女性は男性との差がなく、なんでもできるとの意識革命が行われました。特に、20世紀の5、60年代に、国の呼びかけに応じて多くの若い女性が親兄弟を離れ、男性には負けられないと、競って「辺疆」(へんきょう 辺鄙な地)と呼ばれる「大西北」(新疆などの西北部)と「北大荒」(黒龍江省の北部)の開発と建設に参加しました。農村から工場まで、重労働も含め様々な分野で彼女たちが大いに貢献し、かけ替えのない青春を捧げました。この意識革命の影響もあり、今の中国では、女性は結婚しても苗字と名前を変えず、夫婦共働きが常識となっております。また、毛沢東(もうたくとう)が言った「女性も天の半分を支えられる」の一言がスローガンになり、後に略した「半辺天」(ベンビェンティエン)という言葉が生まれ、今の中国では女性の代名詞にもなっています。
クイズ
祝融夫人が暮らす「南蛮」は現在のどこでしょうか。正解は答えた後に出てきます
正解でしたか?『三国志を美しくした女性たち』と題して、その美貌が百万の兵にも勝る絶世の美女・貂蝉、「忠誠」という美徳を命を持って息子に教え示した徐夫人、美しい愛のロマンスに憧れた孫尚香、そして蜀軍に挑んだ女傑の祝融夫人と、キャラクターが異なる4人の女性の物語をご紹介いたしました。皆様も、これから三国志を読まれる際は、色んな生き様の女性人物にも注目しながら読んでみたらいかがでしょうか。
次は「名言が語る三国の英雄~曹操編」をお届けします。次回の クラブログ をお楽しみください。
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第1回「導入編/熟語と諺から読む三国志」
第2回「美味しい三国志」
第3回「お酒が造った三国志 一杯目」
第4回「お酒が造った三国志 二杯目」
第5回「名馬が踏み開いた三国への道①」
第6回「名馬が踏み開いた三国への道②」
第7回「三国志を美しくした女性たち①」
第8回「三国志を美しくした女性たち②」
第9回「名言が語る三国志 曹操編①」
第10回「名言が語る三国志 曹操編②」
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