皆様、こんにちは!クラブツーリズム中国五千年倶楽部を担当しております王と申します。どうぞよろしくお願いいたします。
さて、『三国志』は、約100年の乱世に活躍した英雄を語る小説で、「男性ばっかり!」というイメージをお持ちではないでしょうか。実は、小説に出場した約1,200名の人物の中、55名の女性も登場しています。一見多く見えるかもしれませんが、割合から言いますとわずか4.5%、そしてそのほとんどが数文字でしか書かれていません。男尊女卑(だんそんじょひ)が根強い1800年前の三国時代ですが、男性に負けず、「英雄」に数えられる女性たちがいました。第7回と第8回では、そういった女性たちの物語から、三国志を楽しんでいただきます。
その美貌の威力が百万の兵にも勝る
~貂蝉(ちょうせん)
さて、第5回のブログに出た「18諸侯の董卓(とうたく)討伐(とうばつ)」の続きになりますが、負けた董卓が幼い後漢の献帝を連れて、洛陽から長安(現在の西安)へと都を移しました。負けたとは言え、董卓は言動を慎むこともなく、養子である天下無敵の呂布に常に同行させ、王宮を自由に出入りし女官に手を出したり、新しく建てた牙城に民間から数百人の少女を集め、悪の限りを尽くして独り天下の有り様でした。
後漢の重臣(じゅうしん)の一人・王允(おういん)が董卓のノサバリに怒り心頭ですが、表では董卓に従順して媚びるのを見せる一方、内心では一日でも早く董卓を倒そうと思っていました。しかし、隅々まで董卓の目が張られており、なかなかチャンスが見つからないので、王允が家に帰ると、いつも溜息ばかり吐いて悶々としていました。
ある夜、この悩みで眠れない王允が裏庭に出たら、香を焚き、月を仰いで嘆く歌伎(かぎ、舞妓の意味)の貂蝉が見えました。王允がその理由を尋ねると、「自分を育ててくださった王允様が悩んでいるのに、惜しくも自分が男児ではなくお力になれないので、お月様に王允様のご無事を祈っているところだ」と貂蝉が答えました。
この話を聴いた王允が、貂蝉を見てふと一つの妙案を思い付きました。「お前のその気持ちが誠なら、こうこうこうしてくれれば、わしの悩みの種である董卓を駆除できる!」と話し、貂蝉は迷いもなく早速賛同し、王允と義理の親子関係を結びました。王允が考え出した妙案とは、「連環の美人の計」であります。(※環:輪っかの意味)
作戦1 首に環(輪っか)をかける
連環の計の一環目
王允の娘としての貂蝉と呂布
数日後、王允が先に呂布に真珠や金糸が施された美しい冠を贈り、呂布がそのお礼を言うため王允の邸宅に訪れてきました。宴会が開き、歓談中に、呂布が冠を作った人にぜひ直接お礼を申したいと言い出しました。「我が娘の貂蝉が作ったモノで、呂布将軍に喜んでもらえるのは誠に光栄だ」と王允が答え、貂蝉を呼びました。恥ずかしそうで可憐な貂蝉の姿が現れると、もう呂布の目が一刻も貂蝉から離せなくなりました…結果、王允から貂蝉との婚約をもらった呂布が、後日正式に嫁として貂蝉を迎えに来ると約束し、やっと残りを惜しみつつ王允の家を出ました。
連環の計の二環目
歌伎(舞妓)の貂蝉と董卓
一方、貂蝉を呂布に嫁がせると約束した王允ですが、その数日後に、呂布のいない隙間を狙い、自宅で盛大な宴会を設けて董卓を招待しました。宴会中に、貂蝉が舞妓として歌と踊りを披露しましたら、王允が想像した通り、董卓の目が貂蝉の一挙手一投足に追いかけ、お酒も食事も口に運ぶのを忘れるくらい、すっかり貂蝉に心が奪われた様子でした。「お気に入りなら貂蝉を董卓様に贈りましょう。舞妓なので、今晩連れ帰っても構わない」と王允が董卓に媚びながら言いました。董卓が大喜びし、宴会を早々に終わらせ、貂蝉の手を握ぎり、馬車に載せて早速帰宅しました。
作戦2 環をつなげる
さて、王允が貂蝉の美貌(びぼう)を利用し、無事に呂布と董卓の首にそれぞれ環(輪っか)をかけましたので、ここからはこの二つの環を繋げる作戦に入ります。
董卓が貂蝉を連れ帰ってから、毎朝遅くまで寝室にこもり、仕事をさぼって歓楽に溺れていました。一方、自分との婚約を約束したのに、また貂蝉を董卓に贈った王允に対して、怒りに燃える呂布が問い詰めますが、「あれ、おかしい!董卓様は、”いずれ貂蝉が我が息子の呂布の嫁になるなら、わしが連れ帰って、早速二人に結婚式をやってあげる”と仰いましたよ!まだ貂蝉が呂布将軍のところに行ってないのか?!」と、逆に王允がびっくりし、怪訝な表情で呂布に聞き返しました。火に油をかけられた呂布が、「義父のくせに、息子の嫁まで奪うなんて、畜生(ちくしょう)同然だ!」と目尻が吊り上がって爆発寸前になりました。しかし、董卓の権勢を考え、自分とはまだ親子の関係であることを念じて、呂布はとりあえず心頭の怒りをなんとか抑え込みました。
数日が経ち、貂蝉が董卓の看病しているのを知った呂布が、早速様子を見に参りました。寝室に入ってきた呂布を見て、貂蝉が屏風(びょうふ)の後ろから少しだけ姿を見せ、片手で横になっている董卓を指し、片手でハンカチで涙を拭きました。泣いている貂蝉を見て、呂布は張り裂けられたように心が痛みました。ちょうどその時、董卓が目覚め、貂蝉をじっと覗き込んでいる呂布を見て、「畜生、わしの女に下心があるのか!」と思い、「今後は寝室に立ち入り禁止だ」と言い伝え、早速呂布を帰らせました。
喉にモノが詰まっているようで、もやもやする呂布ですが、数日後、董卓が皇帝と長話をしているのを見て、画戟(がげき 矛の一種)を引っ提げて急いで董卓の邸宅に行き、裏庭で花見する貂蝉とやっと会えました。「呂布将軍との婚約があるのを知りながらも、董卓は自分を閉じ込めて手放さない」と貂蝉が泣きながら呂布に訴えました。呂布が貂蝉を抱き、慰めながら必ず迎えに来ると改めて約束しました。
一方の董卓ですが、皇帝と話をしている途中、呂布がいなくなったことに気づき、貂蝉のことを気になり慌てて宮廷を出て自宅に戻ってきました。貂蝉を抱く呂布を目にした董卓が、一気に血が頭に上り、呂布の画戟を手に取って、思いっきり呂布に投げ刺すんですが、外れてしまいました。諦めない董卓が再び画戟を拾って呂布を刺そうとしたいですが、でぶでぶの身体はその焦る心に追いつかず、逃げ去る呂布を見るしかなかったです。息切れの董卓に貂蝉が近づき、「花見している真最中に、いきなり呂布に抱かれて無理やりナンパされた」と訴えました。
一方、「義父が僕を殺そうとしてる!」と叫びながら慌てて逃げる呂布を見た董卓の側近が、「呂布の加護がなければ、董卓様も困るし、所詮一人の舞妓に過ぎない貂蝉を呂布に譲るべき」と董卓に忠言しました。その日の夜、董卓が心を鬼にして貂蝉に尋ねてみました、「養子の呂布にお前を送りたいが、どうだい?」、「良い女は一人の男だけに従うもの、私をもう一人の男に送るなら、もう死ぬしかない」と貂蝉が泣き叫び、剣を取って自刃しようとしました。董卓が慌てて阻止し、貂蝉を力いっぱい抱きしめてもう絶対手放さないと誓いました。
作戦3 連環を引き締めて董卓の首を絞める
王允の計に貂蝉の美貌と演技が功を奏し、董卓と呂布がお互いに恨むようになりました。いよいよ、最後の首絞めの段階に入ります。
嫁になるはずの貂蝉が董卓に奪われてしまった呂布ですが、董卓のことを恨んでも、やはり義理の親子関係などを念じてどうすべきか迷っていました。王允が途方に暮れた呂布にこうアドバイスしました。「呂布将軍が董卓との親子関係を重んじているのに、董卓は貴方の婚約者を奪って先に裏切りました。天下無敵と称される呂布将軍は、このような侮辱を受けても反発せず泣き寝入りばかりすれば、世間に弱虫とされ笑いものになる。そもそも呂布と董卓は苗字も違う赤の他人だ!この恥を払って、正々堂々と我が娘を嫁として迎えるには董卓を殺すしかない!」王允の話を聴きながら呂布が頷き、早速王允と董卓を殺す計画を立てました。
数日後、董卓のところに皇帝から「帝位を譲る」勅書が届きました。半信半疑の董卓は、柔らかい鎧(よろい)の上に盛装をし、呂布を連れて王宮へ赴きました。警備兵が同行できない二番目の門に入ると、突然、目の前に剣を手に握る王允が巍然(ぎぜん)と立っていました。「陛下のご命令により、直ちに董卓の首を取れ!」と王允が大声で叫び、左右から伏兵が一斉に董卓に刀を向けました。董卓が事前に盛装の下に鎧を身に付けたので、数回斬られてもまだ生きていました。ピンチの董卓は「我が息子の呂布、早く助けてくれ!」と唯一の「味方」である呂布を呼びますが、呂布が一歩前へ進み、画戟をまっすぐ董卓の喉に刺しました。
董卓が殺された後、董卓の旧部下が西涼軍を率いて長安を攻めてきました。王允が皇帝を守るため、城門から飛び降りて自殺し、漢王朝が再び混乱に陥りました。しかし、貂蝉が主役を担った「連環の美人の計」は、「董卓+呂布」という一番強い悪勢力を瓦解することができ、中国の歴史が前へと大きな一歩を邁進(まいしん)しました。
190年、曹操の呼びかけで18人の諸侯が集結しても、董卓を完全に駆除できませんでしたが、その二年後、たった18歳の貂蝉が無双の美貌と尋常でない度胸で董卓を倒せました。まさに、その美貌の威力は百万の兵に勝りましたね。
貂蝉の行方
『三国演義』では、その後、貂蝉が呂布に寄り添って転々としますが、6年後の198年、呂布が白門楼で曹操に殺された後、首都の許都に連れていかれたと書いてあります。絶世の美人で大任を成し遂げた貂蝉には、やはり「ちゃんとした」結末があるべきと思い、中国の民間芸能の脚本家たちが下記のような、いくかのバージョンを創りました。
①貂蝉が許都に連れていかれた後、曹操の女になった。
②関羽が曹操に「降伏」していた時、曹操が赤兎馬以外に、貂蝉も関羽に贈り、美人の計で関羽を従順させようと図りました。
ーー貂蝉が関羽に、「これ以上複数の男性に仕えることはできない」と訴え、関羽の理解を得て普通の庶民に戻り一生を終えた。
ーー貂蝉が男性を誘惑する災いの元と思い、関羽は貂蝉を殺した。
どれが本当なのか調べるようはありませんが、『三国演義』を書いた羅貫中(らかんちゅう)はあえて貂蝉の行方をはっきりしなかったのが、ひょっとしたら、わざわざ読者に想像させようと狙っていたのかもしれませんね。
ちなみに、吉川英治作の『三国志』では、任務完了の貂蝉が自刃(じじん)し、烈女(れつおんな)というイメージで描き書かれています。
これも知っておけば、あなたも「通」!
さて、貂蝉は中国古代四大美人の一人としても有名ですね。四大美人の名前を時代順で並べますと、西施(せいし)、王昭君(おうしょうくん)、貂蝉、楊貴妃となります。そして、中国では、女性の美しさを称える言葉として、「沈魚落雁(ちんぎょらくがん)、閉月羞花(へいげつしゅうか)」の8文字の熟語が有名です。この熟語を2文字ずつで区切れば、それぞれが上記の四大美人のことを指しています。せっかくなので、少しだけ詳しくご紹介いたします。
沈魚(ちんぎょ)
ーー 西施 (せいし)
春秋時代(縄文時代後期)
越国(えつこく)の美女。西施は川で衣服を洗う時、魚たちも彼女の美しさを見とれてしまい、泳ぐのを忘れて川底に沈んだ、この伝説から「沈魚」という言葉が生まれた。
越国の王の勾践(こうせん)は呉国に敗れ、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)を経て、呉の国王の夫差(ふさ)が女好きと聞いた。勾践が西施を呼んできて、芸能を学ばせて呉の国王に送り込んだ。西施に魅了されてしまった呉の国王が、女色に溺れた末、ついに越国に滅ぼされた。西施がその後、王を誘惑した罪で太湖に沈められた。
落雁(らくがん)
ーー王昭君 (おうしょうくん)
前漢時代(弥生時代中期)
北方の騎馬民族の匈奴(きょうど)の侵入を防ぐため、漢の武帝が王昭君を匈奴の王に嫁がせた。匈奴の国に向かう道中、ホームシックになった王昭君が故郷の方向に向き琵琶を引いた。悲しいメロディを聴き、王昭君の美貌に惚れた一羽の雁が、羽ばたくのを忘れて砂漠に落ちてしまった。この言い伝えから「落雁」の言葉が生まれた。
匈奴の王が亡くなってから、王昭君は現地の風習に従い、匈奴の王の長男と再婚し一生を終えた。王昭君のお墓は、現在の中国内モンゴル自治区のフフホト市郊外に残っている。
閉月(へいげつ)
ーー貂蝉(ちょうせん)
後漢時代(弥生時代後期)
※「閉月羞花」の「閉」と「羞」は、ともに恥じらう意味。
上記「連環の美人の計」の物語にも出ましたが、貂蝉は溜息ばかりで落ち込んでいる王允のことを心配し、月の光が照らす庭で香を焚き王允の無事を祈った。お月様が彼女の可憐な姿を見て、貂蝉の美しさには到底(とうてい)競えないと思い、一抹(いちまつ)の雲の後ろに姿を隠した(閉じた)。この物語から「閉月」という言葉が生まれた。
羞花(しゅうか)
ーー楊貴妃(ようきひ)
唐の時代(奈良時代)
唐の玄宗(げんそう)皇帝の貴妃(皇后に次ぐ)。お酒に酔った楊貴妃が一層妖艶に見え、花の王である牡丹すら、自分は楊貴妃とは比べものにならないと恥じらい、花びらをすぼめた。この伝説から「羞花」の言葉が生まれた。
楊貴妃を寵愛(ちょうあい)し過ぎたせいで皇帝が国の事を顧みなくなり、楊貴妃は「安史の乱」を招いた罪に問われ、38歳で首吊りさせられた。楊貴妃のお墓は現在西安の西に残っている。
絶世の美人と言われるこの4人は、共に政治に利用され悲しい人生を送りましたね。古くから伝わる「佳人薄命」(かじんはくめい)というのは、彼女たちのことを言っているのかもしれませんね。
命を持って「忠誠」の美徳を教え示す
~徐(じょ)夫人
さて、18歳の若さで偉業を成し遂げた貂蝉とは違い、ここからはある年配の女性の美談をお話します。この女性は、最初は劉備に仕え、後に曹操陣営に加入した策士(ブレーン)徐庶(じょしょ)の母親(徐夫人)であります。
201年、劉備が新野という田舎町を守衛する職に就いた後、諸葛孔明を迎え入れる前に、徐庶という有能な軍師を使っていました。徐庶の指揮の下、劉備が簡単に曹操側の名将・曹仁(そうじん)を破り、樊城(はんじょう、現在の湖北省襄陽市)まで奪い取りました。いきなり劉備が強くなったと不思議に思った曹操が、逃げ戻ってきた曹仁から徐庶のことを知りました。人材のスカウトに常に熱心な曹操が、徐庶に自分の陣営に加わってほしいと考え、配下の程昱(ていいく 策士)のある提案を採用しました。
さて、曹操が欲しがっているこの徐庶ですが、幼いころ父親を失くし、母親と二人きりで暮らしていました。徐庶は最初、武術を学び、豪快な性格で弱いものを助け、強きを挫く(くじく)ことを専ら行う義侠(ぎきょう)少年の日々を送っていました。しかし、ある悪者を殺したことで役人に追われることとなり、徐庶が逃亡しながら「万巻(まんがん)の書」を読み、地理や政治を熟知する文人と生まれ変わりました。劉備が人材を求めているのを知った徐庶は、自ら応募し劉備の最初の軍師となりました。また、徐庶が親孝行としても地元ではとても有名です。
話が戻りますが、曹操側の程昱は、まず友達と自称し徐庶の実家を訪れ、徐夫人にこう告げました。「徐庶がまた許都(きょと 現在の河南省許昌)で義侠(ぎきょう)なことやって役人に追われています。彼が病気にかかり今私の家で療養しており、僕が頼まれて代わりにお母様の様子を伺いに来きました。もし見舞いに行きたいならばご案内します」。久しぶりに息子の消息を聴いた徐夫人が早速程昱について許都に来ましたが、案内されたのが曹操の邸宅でした。曹操が自ら徐夫人を出迎え、優秀な息子さんに自分に仕えるよう説得の手紙を徐夫人に頼みました。曹操の話を聴いた徐夫人が、「貴方のようなデタラメ者より、漢王朝を復興する劉備に仕えるのはまことな選択だ」と曹操を罵倒しきっぱり断りました。叱責された曹操は即時この田舎の婆を殺そうと思っていたが、程昱から「そうしたら曹操様の評判が悪くなり、逆に徐庶が曹操のことを恨み、劉備に従う意志が一層固くなる」と言われ、曹操がやっと怒りを抑え去っていきました。
その後、諦めない程昱が、「徐庶の友達」を演じつつ、フットワーク軽く軟禁状態の徐夫人の見舞いに行き、また挨拶の手紙を添えて物を送ったりしていました。その後、程昱が徐夫人から返事の手紙をもらえるようになりました。そんなところで、程昱が徐夫人の筆跡を習い、「曹操に捕まり、劉備を離れ曹操に仕えてくれれば母親の一命が留められる」と徐庶宛に偽の手紙を書きました。
「母親」からの手紙を読んだ徐庶が居ても立ってもいられなくなり、母親を助けるには曹操の処に行くしかないと泣きながら劉備に告げました。劉備は、徐庶が来てから初めて軍師の重要さを知り、手放したくないですが、親孝行の名人の徐庶のことだから、いくら説得しても無駄だと思い、仕方なく徐庶を送り出すことにしました。
翌日、徐庶との別れを惜しんで、劉備が自ら徐庶を見送りました。しかし、劉備は数十キロ見送っても帰らず、更に、木が邪魔で徐庶の姿が見えないと言い、林をすべて伐採しろと命令まで出しました。心が打たれた徐庶が、馬に乗って一旦引き返り、劉備に御礼を重ねて申してから、自分が曹操に仕えても、絶対一つの計も巡らさないと約束しました。
さて、突然現れて来た息子を見た徐夫人ですが、母子再会の喜びも束の間でした。偽の手紙に騙され、駆けつけてきた徐庶に対し、徐夫人が机を叩きながら厳しく叱りました。「古くから、国への忠誠と親への孝行は両立できない、それなのに、お前がたった一枚の偽手紙に騙され、漢王朝の子孫で仁義(じんぎ)者の劉備を捨て、皇帝を欺く曹操を選んだ。光を放棄して暗闇に身を投じるのと同じだ!もう二度とお前に顔を合わせない…」母親を激怒させてしまった徐庶がすぐに庭で跪いてお詫びをしますが、しばらくしたら、慌てて走ってきた侍女(じじょ)から、母親が首を吊って自殺したと告げられました。
徐夫人が命を持って「忠誠」という美徳を息子に教え示しましたね。徐庶がそれを肝に銘じ、それ以降、曹操と曹丕(曹操の後継者)の2代に仕えることになりましたが、劉備との約束を固く守り、一つの計も巡らさなかったです。
ちなみに、徐庶が曹操に仕えるが、何のアイディアも出さないことから、この諺が生まれました。徐庶が曹操の陣屋に入り、一言も発さない(徐庶入曹営、一言不発)。会議に参加しても、発言しない、或いは何の意見も言わない人を例える時によく使われます。
<余談> 皇帝が絶大な存在である「封建社会」は中国で約2,300年も続きました。各王朝の皇帝が自分の独裁を維持するため、「国(皇帝)への忠誠」は一番の美徳とされる孔子と孟子の儒教を大いに普及させました。この儒教の教えの下、「漢王朝に忠誠を尽くすべき、つまり、漢王朝の子孫である劉備に仕えるべき」と思い、諸葛孔明も含め多くの人材が地盤もなく一番弱い劉備を支持する道を選びました。今回ご紹介した貂蝉と徐夫人も、漢王朝に忠誠するという「美徳」に、代えがたい青春と命を捧げましたね。
大きな羊が美しい?!
さて、親孝行の徐庶が曹操に捕まってしまった母親を心配するあまり、偽の手紙を見破れなかったですね。親孝行とも少し関係しますが、最後に、今回のブログに一番多く出た「美」という漢字の由来をご紹介いたします。
「美」の字を上下外して見れば、「羊」に「大」の二文字になります。何故「羊」が「美しい」と関係があるのかと言いますと、子羊は必ず跪いて乳を飲みます。「跪く」ことは中国では一番重い礼儀作法とされています。つまり、幼い羊が乳を飲ませてくれる親に対して、ちゃんと跪いて礼をしています。このことから羊は親孝行という美徳のある動物とされ、人々は羊に対して良いイメージを持つようになりました。後に、羊の形の髪飾りを付けて、おしゃれする人が出てきました。「美」の下にある「大」は、両手両足を広げて立つ人間を表しています。つまり、「羊の髪飾りをして立つ人間が美しい」ことで、「美」という甲骨(こうこつ)文字が作られました。
(※甲骨文字:亀の甲羅や動物の骨に刻まれた最古の漢字)
そして、良い意味を表す漢字には、「羊」がついているのがたくさんあります。例:義、祥、善、羨、翔、達、群、詳… また、羊のお肉が美味しいともされていて、食べ物を表す漢字にも多く付けられています。例えば、鮮、膳…
「美」のクイズ
「連環の美人の計」の主人公・貂蝉の美しさを例える言葉は下記のどれでしょうか。正解は答えた後に出てきます。
正解はCの「閉月」(へいげつ)です。
月夜の庭で貂蝉が香を焚き、王允の無事を祈りましたね。貂蝉の美しい姿を見たお月様は、自分の容姿は貂蝉には競えないと思い、一抹の雲を引っ張って、自分の姿を隠した(閉じた)との言い伝えがあります。
Aの沈魚(ちんぎょ)は春秋時代の美人・西施、
Bの落雁(らくがん)は前漢時代の美人・王昭君、
Dの羞花(しゅうか)は唐の時代の美人・楊貴妃
の美貌を例える言葉です。詳しくはブログ本文もご参照ください。
正解でしたか?今回はその美貌の威力が百万の兵にも勝る絶世の美女・貂蝉、「忠誠」という美徳を命で息子に教え示した徐夫人の物語を通じて、三国志を楽しんでいただきました。次回は美しい愛のロマンスに憧れた〇〇、三国志唯一の女性武将?〇〇のお話をお届けします。次回の クラブログ をお楽しみください。
【え~?これも三国志?!】全10話好評公開中!
第1回「導入編/熟語と諺から読む三国志」
第2回「美味しい三国志」
第3回「お酒が造った三国志 一杯目」
第4回「お酒が造った三国志 二杯目」
第5回「名馬が踏み開いた三国への道①」
第6回「名馬が踏み開いた三国への道②」
第7回「三国志を美しくした女性たち①」
第8回「三国志を美しくした女性たち②」
第9回「名言が語る三国志 曹操編①」
第10回「名言が語る三国志 曹操編②」
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