「わたしの城めぐり」と題して、城や城にまつわる歴史、エピソードをご紹介いたします。
中でも、ドラマに関するツアーや講座では、本来の城巡りから説き起こして主人公の人となりを炙り出す、そんな楽しみを皆様と分かち合いたいと思います。
プロフィール
今回は私の大好きな城の一つ、熊本城を取り上げたいと思う。
熊本地方を襲った震度7の大震災から1年9か月、その悲惨さは筆舌に尽くしがたく、目を覆うばかり。
益城町の惨状はニュースでも大きく取り上げられ、復興作業がはかどらないと報じられている。
益城の街にも城跡があり、何度か訪れ、城跡もさることながら静かなたたずまいの、そして歴史ある街の雰囲気がとてもよかったことを覚えている。
まだまだニュースに取り上げられていない地域や街が多くあるわけで、一日でも早い復興が待たれるところである。
復興と言えば熊本城の復興、多くの人々が待ち望んでいる。
震災後消えていた熊本城天守のライトアップが再点灯された時、多くの市民が「勇気をもらった」「安心感がある」「頑張ろうという気になった」などのコメントをニュースが報じていた。
天守のライトアップ、それだけでも多くの市民に勇気を与えられる存在だったと改めて感じさせられたことであった。
加藤清正と熊本城
熊本城は、一代の武将加藤清正が6年の歳月をかけて築いた名城である。
「熊本」は応仁・文明の頃は隈本と書き、天永・永禄の頃菊池氏の一族によって今の熊本城の南隅にあたる古城址に築いて居城としたのが隈本城の始まりである。
その後一時島津氏のの傘下に入ったが、天正15年豊臣秀吉が島津氏を制して佐々成正に肥後一国を与えて入城させた。
成正は領内統治に失敗して失脚した後、肥後の封地は加藤清正、小西行長両名に南北二つに折半して与えられ、行長が宇土に、清正が隈本に入城した。
そして慶長5年(1600)関ヶ原の戦で西軍についた行長が敗れた際、清正は宇土を占領し、肥後国全部を領有することになった。
翌慶長6年(1601)茶臼山と称した丘陵を中心に大規模な築城工事が施され、熊本城と改名されて今に見る熊本城の原型が出来上がった。
しかし清正が死んで、子の忠広が継ぐと寛永9年、謀反の企てありとの幕府の疑いを受け、出羽庄内に配流となり、豊前小倉の細川忠利が肥後54万石の城主として入城した。
以後細川家は、明治維新まで250年近く続いた。
加藤家追放の裏には、九州の中心部ともいえる政治上、軍事上の要地、熊本と加藤家の結びつきが幕府にとって深い関心・懸念の的だったと思われる。
細川家は忠利の入城後も城域の拡充につとめ、天保期には62の櫓数をを数えていた。
熊本城は細川氏の治世下で江戸時代を通じて拡張され続けていた。
熊本城は加藤清正が秀吉の命による朝鮮出兵の際に大陸の影響をうけた城や石組を目の当たりにし、実際に西浦倭城や蔚山倭城などいくつもの築城経験に基づき石垣構築の技術も高めたと思われる。
熊本築城工事の工事監督(奉行)には当時有数の技術者であった飯田覚兵衛と森本義太夫とがあたった。
白川と井芹川を外堀として周囲9キロにも及ぶ豪壮複雑な城構えであった。
また清正は、朝鮮出兵で兵糧攻めにあった経験を活かし、城内に120もの井戸を掘り、食料になる樹木を植えたり、銀杏を植えたりしている。
いわば実戦を意識した城構え、準備であった。
約98万㎡もの城域に大小天守のほかに櫓49、櫓門18、城門29を数える壮大な城であった。
そのうち現在も残る11の櫓と不開門、長塀は重文また同じく重文の宇土櫓は西南戦争時の焼失も免れ、第三の天守ともいわれる。
清正は、豪傑な顔の裏側、で築城の他に領内の灌漑水利事業など土木工事にも注力していた。
この実戦を意識した清正の城の特徴と言えば何と言っても『石垣』である。
城域の南や東側から望む石垣、幾重にも折り重なるように入り組み、高見に聳える天守に至るまでの迷路なまでの道筋に、様々な石垣が目に飛び込んでくる。
そして「武者返し」「扇の勾配」「三日月石垣」などと呼ばれる美しい曲線を描き、それは「清正公石垣」ともいわれ、いまもほとんどが江戸期当時の姿のまま残っていた。
これらが先の震災で大打撃を受けている。
痛々しいほどである。
西郷軍の総攻撃2日前、1877年(明治10年)2月19日午前11時40分から午後3時まで原因不明の出火で大小天守などの建物(同時に30日間の米、城下の民家約千軒)を焼失した。
現時点で西南戦争での焼失が確認されているのは以下の建造物である。
大天守・小天守・本丸御殿・本丸東三階櫓・月見櫓・小広間櫓・小広間西三階櫓・長局櫓・耕作櫓門・三之櫓門・東櫓門。貴重な櫓が焼失した。
さらには西南戦争後から大正期までに陸軍により順次破却されている。
西郷の決断 難攻不落の熊本城
政府軍と西郷軍の間には田原坂の戦いを含む激しい攻防が行われたが、熊本城は司令官谷干城の指揮の下、4000人の籠城で、西郷軍14000人の攻撃に耐え、ついに守将谷干城は50日余りの籠城戦に耐え抜き、清正の築城術の成果を実証、ついに撃退に成功した。
なお、この戦いでは武者返しが大いに役立ち、熊本城を甘く見ていた西郷軍は、誰一人として城内に侵入することができなかったという。
「おいどんは官軍に負けたとじゃなか。清正公に負けたとでごわす」と、西郷が嘆いたというエピソードが伝わっている。
軌跡の一本足で立つ飯田丸五階櫓 (算木積みの石垣一本で立つ)
昨年正月と6月に熊本城を訪れ、できる限り歩き回り、状況把握に努めてみた。
よくぞ残ったと思われるほど。変な感激なのである。
そしてそれら復興に取り組む作業員の方々の姿が目に焼き付く。
石垣の石一つ一つにナンバリングし、倒壊した櫓の木材にも印をつけ、記帳し記録を取っていく。重文の建物は復興に当ってできる限り古材を活用するのだという。
その地道な作業を延々と続けるのである。
頭が下がる。
どうしても応援したくなる。
人間の日々の生活の復興が最優先であるのは言をまたないが、震災復興のシンボルとして熊本城の復興を願うものである。
復興の旗 フラッグ まさに“見よ風になるわが旗を”である。
『西郷どん』を見るうえでもこの熊本城は見逃せない大きなポイントである。
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