ウィーンが「音楽の都」と呼ばれる理由は、ハプスブルク家の宮廷で音楽が栄えたことにより、ウィーン生まれのシューベルトやヨハン・シュトラウスだけでなく、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、マーラー、ブルックナーなどの活躍の場になり、数々の名曲が後世に遺されたからです。ウィーンほど音楽家ゆかりの場所が現存する街はありません。ウィーンを訪れたら、是非彼らの足跡をたどってみましょう。10回シリーズで、ウィーン市内の音楽家ゆかりの場所を紹介します。初回はモーツァルト・・・
画像: シュテファン大聖堂

シュテファン大聖堂

ウィーンのシンボル

ウィーンのシンボルといえば、137mの尖塔が街の中心にそびえるシュテファン大聖堂でしょう。建物は12世紀にロマネスク様式で建てられ、14世紀に街の支配者となったハプスブルク家によってゴシック様式に増改築され、長い歴史の中で大きな役割を果たしてきました。現在もオーストリア最大の教会として、また世界遺産に登録されている歴史地区の最も重要な建造物として、その存在はまさにウィーンのシンボルに相応しいといえるでしょう。

画像: 左の銘板は、モーツァルト生誕250年を記念して大聖堂内に設置、モーツァルトと大聖堂の関係が記されている。右の銘板は、大聖堂のカタコンベ出口に設置、モーツァルトの遺体が運ばれたことが記されている。

左の銘板は、モーツァルト生誕250年を記念して大聖堂内に設置、モーツァルトと大聖堂の関係が記されている。右の銘板は、大聖堂のカタコンベ出口に設置、モーツァルトの遺体が運ばれたことが記されている。

実はこの大聖堂、ウィーンではモーツァルトに最も縁の深い場所なのです。1782年8月4日、コンスタンツェとの結婚式、そして1791年12月6日には葬儀が執り行われています。二人の息子ヨハネスとフランツの洗礼も行われ、死の数ヶ月前には楽長に志願した記録も残っています。

ザルツブルク大司教と決別

1781年、バイエルン選帝侯から依頼を受けた「イドメネオ」の作曲・上演のためにミュンヘンに滞在していたモーツァルトは、ウィーン滞在中のザルツブルク大司教に呼びつけられました。大司教の長期滞在には有能な楽師が必要だったからです。モーツァルトは3月16日~5月2日、大司教の滞在先であった「ドイツ騎士団の家」に一緒に住みますが、一楽師として召使い同然の待遇に変わりはなく、しかも音楽面で活気に満ちあふれていたウィーンでの自由な演奏活動も妨げられ、積もり積もっていた不満をついに爆発させてしまいました。

画像: 「ドイツ騎士団の家」の銘板

「ドイツ騎士団の家」の銘板

大司教との決別、それは自由を得る代償として、経済的な基盤を失うことを意味していました。モーツァルトはその時すでにウィーンで音楽家としてかなりの名声を得ていましたが、大きなリスクを孕む、そして勇気のいる決断だったに違いありません。

新しい人生の第一歩

無一文で飛び出したモーツァルトは、以前、マンハイムで親交のあったウェーバー家に下宿します。マンハイムでは、モーツァルトの初恋の人アロイジアとの出会いがよく知られていますが、ウェーバー夫人は、アロイジア以外の娘たちと共にウィーンへ引っ越していたのです。やがてモーツァルトは、アロイジアの妹コンスタンツェと恋仲になります。ドイツ語の本格的なオペラを作曲したいと思っていたモーツァルトに「後宮からの誘拐」の仕事が入ってきますが、その台本に書かれていたヒロインの名前がコンスタンツェだったこともあり、モーツァルトは作曲に没頭することができました。

画像: ウェーバー家の住居跡の銘板 「高級からの誘拐」が作曲されたことが記されている。

ウェーバー家の住居跡の銘板 「高級からの誘拐」が作曲されたことが記されている。

1782年7月12日、ブルク劇場で初演された「後宮からの誘拐」は大成功を収め、それで得た収入でコンスタンツェとの結婚式を挙げました。「後宮からの誘拐」を作曲したウェーバー家の住居は、自ら選択した新しい人生の第一歩を踏み出した場所なのです。

絶頂期を迎える

1784年9月~1787年4月に住んだ住居は、今風にいえば最高級マンションです。モーツァルトは、貴族の私邸などで行われる予約演奏会が年に100回以上を数えるほどの売れっ子のピアニストであると同時に、予約演奏会用のピアノ協奏曲や「フィガロの結婚」などのオペラを精力的に作曲し、まさに名声も収入も絶頂期に達していました。この住居は、以前「フィガロハウス」と呼ばれていましたが、生誕250年を記念して大々的に増改築され、地上4階、地下2階、総面積1000㎡にも及ぶ新しい記念館「モーツァルトハウス」として再オープンしました。

画像: モーツァルトハウス(記念館)の正面

モーツァルトハウス(記念館)の正面

画像: モーツァルトハウスの裏側に回ると「フィガロの結婚」を作曲したことが記された銘板がある。

モーツァルトハウスの裏側に回ると「フィガロの結婚」を作曲したことが記された銘板がある。

その後モーツァルトは減り続ける収入に応じて何度か住居を変えますが、最後にはまたシュテファン大聖堂の近くに戻りました。1791年12月5日にモーツァルトが息を引き取った住居は、狭い路地の目立たない場所にあり、遺体はすぐにシュテファン大聖堂に運ばれました。

画像: 左の銘板は、モーツァルトが息を引き取った最期の家跡を記している。右側の銘板は、そのすぐ近くにあった演奏会場で、モーツァルトやベートーヴェンが演奏会を催したことが記されている。

左の銘板は、モーツァルトが息を引き取った最期の家跡を記している。右側の銘板は、そのすぐ近くにあった演奏会場で、モーツァルトやベートーヴェンが演奏会を催したことが記されている。

大司教と決別した「ドイツ騎士団の家」、自由人として新たな第一歩を踏み出した「ウェーバー家の住居」、生涯で最も幸福で華やいだ日々を送った「モーツァルトハウス」、モーツァルト最期の住居・・・これらはモーツァルトの転機となった時期に住んだ住居になりますが、すべてシュテファン大聖堂を取り巻くように、歩いて5分以内の範囲に点在しています。つまりシュテファン大聖堂は、モーツァルトにとっても極めて重要な、シンボル的な存在だったと言えるでしょう。

クラブツーリズムでは、通年ウィーンを訪れるツアーをご用意していますが、「山本講師同行ツアー」では、自由時間を利用してご希望の方々を、講師がリング内、周辺の音楽家ゆかりのスポットへ徒歩にてご案内しています。

「海外・音楽の旅フェア」開催

10月6日に生演奏によるミニコンサート付「海外・音楽の旅フェア」を開催します。ご来場をお待ちしています。

画像: 【クラブツーリズム 音楽の旅】 旅の文化カレッジ講師 山本 直幸 ベルリン留学中6年間、オペラ・コンサート通いの日を送る。 特にヨーロッパの歴史や音楽・美術への造詣が深く、長年音楽旅行企画に携わり、ツアーにも同行し現地で案内役も務める。海外添乗・駐在日数は4,000日以上。音楽雑誌等に音楽旅行記事を多数寄稿。

【クラブツーリズム 音楽の旅】
旅の文化カレッジ講師 山本 直幸
ベルリン留学中6年間、オペラ・コンサート通いの日を送る。
特にヨーロッパの歴史や音楽・美術への造詣が深く、長年音楽旅行企画に携わり、ツアーにも同行し現地で案内役も務める。海外添乗・駐在日数は4,000日以上。音楽雑誌等に音楽旅行記事を多数寄稿。

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