クラブツーリズム中国五千年倶楽を担当しております王と申します。どうぞよろしくお願いいたします。
さて、今までのシリーズでは熟語と諺、食べ物とお酒という切口から三国志を楽しんでいただきましたが、今回から「名馬」から三国志を読んでみたいと思います。
はじめに
ご存知の通り、第一、二次産業革命によって蒸気機関車と車が世に出るまでは、馬が最速の交通手段で、戦時においては歩兵よりスピードの速い騎兵が一番強いとも言えるでしょう。
三国時代以前の中国の歴史を見れば、北方の騎馬民族・匈奴(きょうど)の侵攻を防ぐため、秦の始皇帝が万里の長城を築いた他、前漢の武帝も伝説の「汗血馬」(かんけつば)を求めるのに、遥々大苑国(現在のウズベキスタンのフェルガナ盆地あたり)に使者を派遣しました。武帝が千金で汗血馬を交換しようと交渉に試みたが失敗し、ついに戦争まで起こし、大苑国王を殺してやっと数十匹の汗血馬を手に入れることができました。戦乱が続く三国時代においても、英雄の運命、乃至歴史の行方も騎兵の数、そして良馬がいるかどうかで異なっていたと言っても過言ではありません。
では、三国鼎立(ていりつ)の時代の作り上げに馬力を尽くした名馬に焦点を当て、前半と後半の2回に分けて、『名馬が踏み開いた三国への道』についてお話をさせていただきます。
~名馬・赤兎馬(せきとば)~ 物語の幕を開く
三国志最初の頃に遡りますが、後漢の末、朝廷(中央政府)の実権を握る外戚(皇后・姫の親戚)の何進(かしん)を打倒するため、馬の産地でもある西涼(せいりょう 現在の陝西省西部、甘粛省中東部)から、董卓(とうたく)が首都の洛陽にやってきました。
しかし、何進を駆除した後も董卓が帰らず、ある日群臣武将らを集め、新たに皇帝を立てる考えを発表しました。董卓を恐れて異議を申す人がほとんでいなかった中、文官の丁原(ていげん)だけが公然と董卓を叱責しました。怒り心頭の董卓がすぐにでも彼の首をねじり取りたいですが、丁原の後ろに画戟(がげき 矛の一種)を握り、目に怒りの火が燃える一人の美将軍が威風堂々と立ち構えているのを見て、ひとまずグイっと我慢しました。
後に、この美将軍は丁原の義理息子で天下無敵の呂布だと知った董卓が、呂布を自分の配下に収めれば、もはや世に恐れるものは無いと考えました。そこで、側近の一人が、董卓の愛馬の「赤兎馬」(せきとば)と金銀財宝を呂布に贈る買収案を出しました。
董卓の赤兎馬と言えば、かの西域生まれの汗血馬で、昼に千里、夜は八百里も奔れ、疾走する時は、真っ赤な体が燃え盛る炎が流れるかのように見え、知る人ぞ知る名馬であります。さすがの董卓も赤兎馬まで呂布に送ることに躊躇(ちゅうちょ)していましたが、「天下を取るには、一匹の馬を惜しむべきではない」と勧められ、しぶしぶと買収案に同意しました。計算通り、呂布が赤兎馬を見て大喜びし、早速返礼として義理の父親(丁原)の首を切り落として董卓に捧げ、更に董卓と義理の親子まで結びました。赤兎馬を手に入れた呂布が有頂天になり、そして呂布を子分にできた董卓が、ますます勝手気ままにのさばるようになり、新たに即位させた皇帝(漢の献帝)を操り、略奪に殺人放火、残虐無道を極めました。
一方、当時まだ一守衛隊長だった曹操が、董卓のやり放題を座視できず、暗殺を画策し自ら実行したが失敗してしまい、やむを得ず故郷へ逃げていきました。その後、曹操が全財産を尽くし、そして同郷の金持ちからの資金援助で軍用品を調達し、兵士を募り、地方諸侯に一緒に董卓を討伐するようと呼びかけました。紀元190年、大軍閥の袁紹が盟主に選ばれ、曹操が参謀で、公孫瓚(こうそんさん、配下に劉備・関羽・張飛も含む)、孫堅(孫権の父親)など18の諸侯が集結し首都の洛陽に迫ってきました。
董卓側は最初、猛将の華雄(かゆう)に出陣させ、18諸侯連合軍の武将2人を殺すことができました。しかし、まだ無名小卒だった関羽に華雄を斬られた後、董卓がやっと本気になり、洛陽からおよそ30km離れた虎牢関(ころうかん)を呂布に守らせることにしました。18諸侯連合軍を前に、紫金の冠に銀色の鎧、紅地色に花模様の錦羽織を煌びやかな帯でギュッと締め、背に弓矢を負い手に画戟を引っ提げ、空を嘶く赤兎馬に跨る呂布が、正しく「人中の呂布、馬中の赤兎」の有り様でした。
「人中の呂布、馬中の赤兎」の意味:雄姿と美貌を言えば呂布に勝る人は無し、駿馬と言うなら赤兎馬に匹敵するものは無し」
戦が開き、呂布が単騎で18諸侯連合軍の陣に突入し、画戟を上下左右に舞わして、まるで袋から物を取るかのように次から次へと敵軍を斬り落としました。一方、呂布を載せた赤兎馬も少しも怯えず飛び奔り、避けられず馬蹄に蹴り倒され、踏み潰されて死んだ敵軍も数十人以上にも及んだとか。
砂塵が舞い上がり、叫び声に泣き声、斬られた人の手や足があちこちと飛び散り、血まみれの世界に化した戦場を見た18諸侯連合軍側ですが、呂布に挑むと自ら名乗る武将も殆どいなくなりました。仕方なく、諸侯の一人の公孫瓚が馬に乗り応戦に出ましたが、辛うじて2、3回と戟(ほこ)を当てただけでもう敗走するしかなかったです。
呂布が赤兎馬に一鞭を打ち、逃走する公孫瓚をもうすぐ追いつきそうになったその時、横から、真っ黒な顔に虎如きの髭(ひげ)、豹(ひょう)のようなまん丸い目、蛇矛(じゃくぼこ)を手に握る張飛が突如現れました。張飛が呂布と三十「回合」(※)戦っても勝ち負けが分けないのを見て、今度は義理兄弟の関羽が偃月刀(えんげつとう)を高く持ち挙げ、更に劉備も雌雄の二剣を舞いながら加勢してきました。
カーンカーン、ガキーンと響く武器の音に散りばめる火花、ヒンヒンと馬の嘶き、董卓側も18諸侯連合軍側もまるで芝居を観ているかのように静まり返りました。赤兎馬に跨る呂布が、劉備・関羽・張飛の三英傑と更に何十回合交戦しても勝負が決まらず、このまま戦い続けるのが得策ではないと思い、「来たる日に再戦!」と言い投げて虎牢関の方へ引き返りました。劉備らが戦う気満々でその後を追いかけますが、到底馬力では赤兎馬に及ばず関内に入っていく呂布の背中を眺めるしかなかったです。
虎牢関の戦いは、後に董卓が洛陽城に火をつけて放棄し、都を長安に移すことで終わりましたが、赤兎馬一匹の呂布が、単騎で数十万の敵軍に挑む三国一の武勇伝を作り上げました。
※回合:馬に乗って武器を交える回数のこと
なお、この190年に起きた董卓の討伐の後、中国の政治局面も変わりました。
先ず、地方諸侯に討伐を呼びかけた曹操が政治の中心舞台に上がりました。そして、当初、漢王朝の復興を目指した曹操が大軍閥の袁紹と袁術兄弟に期待していましたが、虎牢関の戦いの前、先手の孫堅勢が洛陽を攻め落とそうになった時、袁術が孫堅に功績を奪われることを恐れて救援の食料を切りました。この出来事から曹操は、袁氏兄弟が自己中心で英雄たる大局を顧みる器ではないことに気づき、自ら中国を統一する決心をしました。
次に、無名だった劉備・関羽・張飛の三人が力を合わせて呂布を退治できたことで名を世に馳せ、三国志の表舞台に重要な一歩を踏み出すことができました。
そして孫堅(呉を建国した孫権の父親)は董卓が去った後の王宮に入り、秦の始皇帝から各王朝の皇帝に代々伝わってきた「玉璽」(ぎょくじ 皇帝の印)を偶然に見つけ手に入れたことで、「俺こそが天に選ばれた皇帝になる人」と確信し、野望を抱えて本拠地に戻り覇業を図り始めました。20年後の紀元220年から229年、曹操、劉備、孫権の三勢力がそれぞれ魏、蜀、呉を建国し、三国鼎立の時代を開きました。
赤兎馬がいなければ、呂布が董卓に仕えることもないですね。呂布の加勢がなければ、董卓が帝位を廃止する非道なこともできず、18諸侯に討伐されることもないですね。そうしたら、曹操、劉備らの活躍もなく、三国志は違う展開になったかもしれませんね!まさか赤兎馬から物語が始まったとは・・・
今回のブログの主題とは直結しませんが、184~195年までの流れをもっと知りたい方は、下記年表をご参考ください。深く知る必要のない方は次の物語へと飛ばしてください
(パソコン利用の方は画面を拡大して、スマホ利用の方は画面を横に変え拡大してからご覧下さい)
~名馬・赤兎馬(せきとば)~ 千里を走り、華容道(かようどう)で曹操を救う
さて、董卓が長安に遷都した後、大臣の王允(おういん)が絶世の美女・貂蝉(ちょうせん)を利用し、「連環美人計」を巡らして呂布と董卓を反目させ、董卓が義理の息子である呂布の手で殺されました。一方の呂布は、武術では天下無敵ですが、義理の父親二人(丁原と董卓)も殺したことで、世間の評判ががた落ちしてしまいました。その後、転々と何人かの地方軍閥に身を寄せ、しかも酔っぱらった張飛から徐州を奪いましたが、禁酒令によって部下の恨みを買ってしまい(3回目のブログをご参照)、赤兎馬も盗まれて曹操のモノになりました。
もう一方の劉備ですが、曹操と「酒を煮て、英雄を論じる』(4回目のブログを参照)の後、袁術を討伐する口実で曹操から無事に脱出し再び徐州を手に入れましたが、漢の献帝が血で書いた「曹操を滅ぼして漢王朝を復興せよ」の密詔(みつちょう 秘密の勅書)に血判したことが曹操にバレてしまいました。劉備の本性を知った曹操が自ら大軍を率いて徐州城に迫り、敗れた劉備が袁紹の処へ逃げ、張飛も行方不明になりました。関羽が城内に残された劉備の妻2人を守るため、やむを得ず一時曹操に「降伏」し、身を寄せることとなりました。
曹操が才略兼備の関羽を自分に従わせようと思って、金銭に美女を惜しむなく関羽に贈りましたが、関羽が劉備を背く素振りも見せませんでした。途方に暮れた曹操がついにあの天下無双の赤兎馬を贈ったら、関羽が大喜びました。ところが、数か月後に劉備の居場所を知った関羽が、曹操からの金銀財宝と侯爵の印を全部残し、赤兎馬に乗って曹操の元を去りました。関羽が単騎で、劉備の2人の妻を守りながら、千里を走り、途中5つの関所で阻んできた曹操6人の武将も斬り、やっと劉備と再会ができました。
赤兎馬の力を借りて、関羽が劉備との「桃園の誓い」を守り貫きましたね。この苦難を極めた一連の出来事は、『関羽、千里を単騎で走る』、『関羽、五関にて六将を斬る』と名付けられ、中国ではオペラの人気演目となっております。
なお、関羽が曹操に対して、赤兎馬の恩返しもちゃんとしています。
赤壁の戦いで惨敗した曹操が必死に逃げますが、先に孫権軍、次に劉備側の趙雲、張飛に次々と襲撃され、最後、ここさえ通れれば援軍が見える華容道(かようどう)になんとか辿り着きました。しかし、諸葛孔明の計算で既に関羽がここで待ち伏せていました。腹ペコで衣服もボロボロになった曹操が、昔面倒を見てあげたことを念じて、どうか逃してくれないかと関羽に泣きついてきました。
実は、関羽が華容道に来る前、諸葛孔明が張飛と趙雲に曹操を追撃する任務を与えたのに、自分には一役もくれなかったです。腑に落ちない関羽が理由を諸葛孔明に問いかけましたら、「関将軍は、曹操に赤兎馬の恩と世話になった過去があるゆえ、きっと曹操を逃すから」と言われました。腹立った関羽が、「もしそんな愚かなことをしたら、文句なしで軍師の処刑を受けいれる」と諸葛孔明と軍令状(約束)を交わし、やっと華容道で曹操を待ち伏せ攻撃する任務をもらえたんです。ところが、泣き面の曹操に命乞いされた関羽が、両足が跨る赤兎馬を暫し見た後、目を閉じて曹操一行を通してあげました。手ぶらで戻ってきた関羽を見た諸葛孔明がからからと笑い、頷きながら「関将軍はまことに義理人情を重んじる人だ!」とコメントしました。
曹操から「日に千里」の赤兎馬をもらえなかったら、関羽が劉備と再会できたでしょうか。そして、曹操が「城一つの値もする」赤兎馬を関羽に贈らなかったら、ひょっとしたら華容道で容赦なく殺され、後世の私たちも三国志ではなく、二国志、もしくは多国志を読むことになるのかもしれませんね。
~名馬・赤兎馬~ 長沙で黄忠に出会い、劉備の覇業に馬力を発揮する
赤壁の戦いの後、劉備が孫権から「借りた」荊州を拠点に領域を広げ、趙雲や張飛が次から次へと城を攻め落とし華々しい戦績を作りました。一方、華容道で曹操を逃した関羽が、座ってはいられず自ら長沙を奪取すると諸葛孔明に強請り、やっと赤兎馬に乗って戦に臨むことができました。
長沙の長官が武将の黄忠(こうちゅう)に応戦させました。時の黄忠は、銀色の長髭(ひげ)ですでに60に近い年寄りですが、若者に負けないくらい体力旺盛で、関羽と同じ長い刀を使い、弓の名人としても知られています。
初日、馬に乗って面合わせした関羽と黄忠が互いに名乗ってから開戦し、打ってくる刀に返す刀、何十回合を戦っても勝負が決まらないので、黄忠の体力を心配した長沙の長官が鐘を鳴らして退きを命じました。
翌日、二人が再び戦いを始めましたが、相変わらずなかなか決着がつきませんでした。走る黄忠を関羽が追いかけますが、突然、黄忠の馬がズトンと前の両足が攣って転んでしまい、黄忠も落馬してしまいました。本来ならば、ここで関羽が簡単に黄忠を殺せますが、さすが正々堂々の関羽、「黄将軍の馬が疲れたので、明日にまた戦おう」と言い残して去っていきました。
三日目、「刀では勝てないなら、得意の弓を使え!」と命じられた黄忠が3回目の戦に挑みました。昨日落馬した自分を殺さなかった関羽にちゃんと礼儀を尽くすべきと思い、黄忠が先に矢を使わず弓だけ空引いて2回ほど威嚇したが、それでも関羽が撤退しそうもなかったので、仕方なく矢を弓に当て、関羽の冠の先っぽうにある飾りだけを射落としました。驚いた関羽が、「黄忠がさすが弓の名人で礼儀正しい英雄だ」と心の中で感銘し、やっと赤兎馬と引き返りました。
しかし、城門に立ってずっと観戦していた長沙の長官が戻ってきた黄忠にこう言い渡しました。
「昨日関羽がお前を逃し、本日はお前が関羽を逃した!まさかお前らが内通しているではないか?!直ちに城門の外に連れ、斬首してさらし首にせよ!」 早速黄忠が処刑台に引きつられて行き、もう首を斬られるのを待つだけのところ、ちょうど食料を護送してきた魏延(ぎえん 長沙の武将)に見られました。魏延が「黄忠のような名将にこんな理不尽な処罰を下す奴に仕えるべきではない」と決心し、まずは実刑官を斬って黄忠を助け、そのままの勢いで城門に上がり長沙の長官も殺して関羽に降伏しました。
長沙の戦いで起きた関羽と黄忠の二人の美談を聴いた劉備が、黄忠が年老いたけど勇猛で、且つ関羽並みに義理を重んじる人だと思い、長沙に着いてから自ら黄忠を訪れ帰順させました。黄忠がその後、経験と才能を活かし、劉備の四川奪取の際に大活躍したほか、漢中攻めの時、かの曹操の名将である夏侯淵(かこうえん)も斬り落とし、蜀の五大虎将の一人と仰がれました。そして、221年、関羽の復讐のために劉備が起こした呉と戦争にも黄忠が参加し、先陣で矢のケガを負って75年の生涯を終えました。
赤兎馬はさすが三国志一の名馬ですね!武術では関羽と黄忠は引き分けでしたが、馬においては、赤兎馬が勝ちましたね。馬力で負けた黄忠の馬が転んだことがきっかけで、関羽と黄忠が互いを慕う気持ちが生まれたんですね。三国志の「長沙の戦い」の物語では、赤兎馬については一筆の描写もありませんでしたが、ある意味、赤兎馬の「馬力」のおかげで、劉備が黄忠という代えがたい人材を獲得し、赤兎馬が「一馬」として、劉備の覇業に馬力を尽くしましたね。
ちなみに、赤兎馬が最後まで関羽から離れることなく、大黄河から長江までの大地を駆け回り数々の武勇伝を残しました。219年、関羽が襄樊(じょうはん)攻めの時に曹操軍に敗れ、呉の呂蒙(りょもう 武将)にも拠点の荊州を急襲されてしまい、麦城(ばくじょう)に敗走しかなかったです。包囲された関羽が、兵士も馬も腹ペコの状態で力を絞って麦城を脱出し劉備の処(成都)へ逃げますが、途中、赤兎馬が待ち伏せていた敵軍に7本の鎖で転ばされ、悲しくも関羽が捕まってしまいました。後に呉の孫権に関羽が斬首され、赤兎馬も絶食し自ら死を選んだと言い伝えられています。赤兎馬が、正しく「馬中の英雄」ですね!
<余談>孫権が関羽を斬首した後、関羽の頭を箱に入れて曹操に送りました。曹操が厳かな葬式を行い洛陽で関羽の首塚を造りました。そして、劉備からの仇討ちを恐れた孫権が、現在の湖北省の当陽で関羽の胴体のお墓も建てました。張飛同様、関羽も頭と胴体、それぞれ違う場所に二カ所のお墓があります。
「馬」言葉
今回のブログは、跨る時代が長く、登場人物と地名も多いので、最後、すこし話題を変えて、軽い「馬」の話をいたします。
日本語にも、馬鹿、白馬王子、走馬灯など、「馬」が入っている言葉がありますね。中国語にも日常会話から祝辞まで、たくさんの「馬言葉」があります。いくつかご紹介します。
馬虎(マーフー)【おっちょこちょい】
馬上(マーシャン)【すぐに】
馬戯(マーシー)【サーカス】
下馬(シャーマー)【高官が更迭されたこと】
拍馬屁(ペーマーピー)【ごますり】
昔、偉い人だけ馬に乗れたので、その馬の尻を撫で、馬を褒めて媚びる人が多いことから生まれた言葉です。
馬前卒(マーティエンズー)【雑務する人】
元々は偉い人の馬を引く人を指す意味。転じて重要なことを任せてもらえず、雑用ばかりをさせられる人。
老馬識途(ローマ―シートゥー)【経験者が陣取りすること】
馬後砲、事後諸葛 【失敗した後に、こうすべきと言ってくる人】
昔、馬に乗って出陣する前に、大砲を打って士気を高める習慣がありました。「馬後砲」とは出陣してから大砲を打ってももう遅いという意味。使い方の例:今さらこう言われても、馬後の大砲、事後の諸葛孔明だ!
気分転換クイズ
関羽が曹操を逃した場所を下記からお選びください。正解は答えた後に出てきます
正解はDの華容道です。
Aの長沙は関羽と黄忠が戦った町。Bの虎牢関は呂布が単騎で18諸侯連合軍に挑んだ場所。Cの徐州は劉備が曹操に敗れ、関羽と張飛と離れ離れになった町。
城一つの価値もする天下無双の名馬~赤兎馬、董卓から呂布、曹操と関羽、立場の違う四人を乗せて、戦乱の時代を駆け回り、三国への道を命の最後まで走りましたね。今日は一旦この辺で「下馬」し、次回の『名馬が踏み開いた三国への道 後半』で、曹操と劉備の愛馬でまた「旅」を続けます。次回の クラブログ もお楽しみに!
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第3回「お酒が造った三国志 一杯目」
第4回「お酒が造った三国志 二杯目」
第5回「名馬が踏み開いた三国への道①」
第6回「名馬が踏み開いた三国への道②」
第7回「三国志を美しくした女性たち①」
第8回「三国志を美しくした女性たち②」
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