モーツァルトの生家
モーツァルトは、1756年1月27日に生まれ、25歳の時にウィーンに移り住むまで、ザルツブルクの君主である大司教に仕えていました。その生家は旧市街のメイン・ストリートであるゲトライド通り9番地にありますが、その前にはいつも大勢の人がいるのですぐに分かります。記念館には、モーツァルト使用の楽器などの遺品も展示してあり、最もモーツァルトを偲ぶことができるスポットです。
ちなみに道幅が数メートルしかないゲトライデ通りは、店先に美しい看板のある店が軒を連ねています。古いもので16世紀ころまで遡る看板は、文字が読めない人も多かったため、一目見て分かるようにと利用されました。この看板の美しさが、そのままゲトライデ通りの美しさになっています。
モーツァルトゆかりの3つの教会
大聖堂は、モーツァルトの洗礼教会で、当時の洗礼盤もそのまま残っています。実はこの大聖堂のために教会音楽のほとんどを作曲しているのです。1779年には宮廷オルガニストに就任し、大聖堂のオルガンで自らの作品も演奏しています。
絶大な権力を握っていた大司教の権力の象徴でもあるザルツブルク大聖堂は、101mx69m、丸天井の高さが71mという巨大な建造物ですが、1000年以上の歴史の中で、幾度となく火災による被害を受け、再建を繰り返しました。1705年に完成した大聖堂のオルガンも、幾度となく修復、拡張され、現在ではウィーンのシュテファン大聖堂に次いでオーストリアでは2番目に規模が大きなものです。モーツァルトの時代には、オルガンが力強く響くと、コウモリが眠りから覚め、丸天井の下を音もなく飛び回る光景が見られたそうです。大聖堂では今でも「戴冠ミサ」などの作品がよく演奏されますが、そのオルガンの響きに耳を傾けるとき、モーツァルトを最も身近に感じることができるかもしれません。
ザンクト・ペーター教会の修道院は、その歴史が696年まで遡り、教会の建物は9世紀に建てられました。火災で倒壊後、12世紀にロマネスク様式で再建され、17世紀に現在のようなバロック様式の建物に改築されました。1769年、モーツァルトは、後に修道院長になる幼なじみのドミニクスのために、通称「ドミニクス・ミサ」を作曲しています。
そして1783年、モーツァルトがウィーンからザルツブルクへ帰郷した際に、準備していた大作「ハ短調ミサ」を初演したのがこの教会です。ザルツブルクを発つ前日の10月26日、モーツァルトは、ソプラノのパートを歌う妻コンスタンツェの晴れの舞台を演出するかのように、自ら指揮をして「ハ短調ミサ」を演奏しました。結局これがザルツブルクとの別れの演奏会になり、その後モーツァルトは、二度とザルツブルクの地を踏むことはありませんでした。
マリア・プライン巡礼教会は1633年、30年戦争時の火災の中から奇跡的に無傷で残ったという聖母マリア像がもたらされたことに由来して巡礼地になり、1751年、主祭壇に飾られたその聖母像の戴冠が祝されて以来、毎年戴冠の式典が行われるようになりました。モーツァルト一家はミサのために何度も通っています。ザルツブルクで宮仕えの身であったモーツァルトの全作品の1割以上がミサ曲などの教会音楽になりますが、1779年に作曲した「戴冠ミサ」は、ザルツブルクで書いた教会音楽の集大成とも言える大作です。「戴冠式ミサ」という名で呼ばれているのは、長年ザルツブルク近郊にあるマリア・ブライン巡礼教会の聖母マリア像に対する戴冠の式典のために作曲されたと伝えられていたからです。しかしその後の研究でモーツァルトがこの教会のために作曲したのは、1774年のヘ長調ミサであり、「戴冠式ミサ」は大聖堂での復活祭式典のために作曲されたというのが定説になっています。
その他モーツァルトが17歳の時に引っ越した「モーツァルト住居」(現記念館)、父レーオポルトと妻コンスタンツェの墓がある聖セバスティアン教会、モーツァルト広場にあるモーツァルト像、カプチーナ山にあるモーツァルト胸像、代表作「魔笛」の登場人物パパゲーノとパパゲーナの噴水など、モーツァルトを偲ぶ場所をめぐる散策もザルツブルク訪問の魅力になります。
クラブツーリズムでは、ザルツブルク音楽祭を訪れ、モーツァルトゆかりの場所へもご案内するツアーをご用意しています。ザルツブルクへは、是非音楽祭期間中にお出かけください。
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