旅の文化研究所研究員、一般社団法人日本旅行作家協会会員の黒田尚嗣(くろだなおつぐ)が「歴旅の演出家、旅する世界遺産の語り部」としてクロアチアの旅について熱く語ります。
画像: 黒田尚嗣(くろだなおつぐ) 慶應義塾大学経済学部卒。現在、クラブツーリズム㈱テーマ旅行部顧問として旅の文化カレッジ「世界遺産講座」を担当し、テーマ旅行の企画をしながら「歴旅の演出家、旅する世界遺産の語り部」として旅について熱く語る。近畿日本ツーリスト時代より海外旅行の企画に携わり、世界各地の文化遺産や自然遺産を多数訪れている。旅の文化研究所研究員、一般社団法人日本旅行作家協会会員

黒田尚嗣(くろだなおつぐ)
慶應義塾大学経済学部卒。現在、クラブツーリズム㈱テーマ旅行部顧問として旅の文化カレッジ「世界遺産講座」を担当し、テーマ旅行の企画をしながら「歴旅の演出家、旅する世界遺産の語り部」として旅について熱く語る。近畿日本ツーリスト時代より海外旅行の企画に携わり、世界各地の文化遺産や自然遺産を多数訪れている。旅の文化研究所研究員、一般社団法人日本旅行作家協会会員

危機遺産から脱したアドリア海の真珠「ドゥブロヴニク旧市街」

奇跡の独立共和国ドゥブロヴニク

イギリスの劇作家、バーナード・ショー「この世の天国を見たければ、ドゥブロブニクに行かれよ」という言葉を残しており、今回の私の最終目的地「アドリア海の真珠」と呼ばれるドゥブロヴニクは、私の一押しの都市でもあります。

画像: ドゥブロブニクとアドリア海(イメージ)

ドゥブロブニクとアドリア海(イメージ)

ドゥブロヴニクとはスラヴ語の名称で、ラテン語ではラグーサと言い、ナポレオン侵攻まではラグーサ共和国と呼ばれる海洋都市国家でした。
イタリアのアマルフィピサジェノヴァヴェネツィアと同様に地中海貿易で栄え、次々と宗主国が変わる中、巧みな外交術と堅牢な城塞によって都市国家としての自由と自治を守り続けたのです。

紺碧の海と空を背景に、茜色の屋根瓦を載せた象牙色の家々がびっしりと軒を連ねる旧市街には頑強な城壁がぐるりと取り囲んでいます。

画像: ドゥブロヴニク 城壁(イメージ)

ドゥブロヴニク 城壁(イメージ)

ロープウェイでスルジ山に登り、展望台から見た城塞都市ドゥブロヴニクは、真っ青なアドリア海に向かって挑むように張り出し、溢れる陽光に輝いており、まさしく「アドリア海の真珠」という表現がふさわしい街です。

旧市街入り口のピレ門に近いロヴリィエナッツ要塞の砦には、ラテン語で「どんな黄金との引き換えであっても、自由を売り渡してはならない」と書かれています。
軍隊もろくに持たない小国ながら、自由を得るためには敵に黄金を差し出すことさえいとわなかったドゥヴロヴニク市民の強い意志が伝わってきます。

しかし、1667年に突然起こった大地震によって甚大な被害を被り、また1991年のユーゴスラヴィア連邦軍による攻撃の際も町の大半が破壊されるという悲劇を味わいました。

そして「危機にさらされている世界遺産リスト」に載せられましたが、市民の精力的な努力によって1994年にはリストから削除されたのです。

画像: ドゥブロヴニク旧市街(イメージ)

ドゥブロヴニク旧市街(イメージ)

ドゥブロヴニクは福祉国家

旧市街のメインストリートであるプラツァ通りは美しい敷石で埋め尽くされていますが、よく見ると中央が盛り上がっていて両脇の溝に雨水が流れていくように造られています。
また、15世紀にオノフリオの噴水が建設された際には、飲料水の上水だけでなく、下水施設も備わっていました。

これはドゥブロヴニク共和国が市民の衛生面にも配慮していた証であり、中世では多くの町が不衛生な状態でしたが、ドブロヴニクではなんと定期的にゴミの収集サービスも行われていたと言われています。

また、町の発展期に防火目的で木の建造物はすべて石に造り替えられ、岩場の穴藏には穀物倉庫を設けて市民の食糧の確保にも力を注ぎました。

さらに共和国政府は医療サービスにも力を入れて取り組み、市民の健康管理に携わる医師、薬剤師、理髪店などを優遇していました。
なぜ理髪店かと言えば、中世の時代には理髪店はケガの治療や簡単な外科手術も行っていたからです。

また、ロマネスクの回廊が美しいフランシスコ修道院にもクロアチア最古の薬局が今も現役で営業しており、ドゥブロヴニクは福祉の先駆都市であったと言えるでしょう。

画像: 聖フランシスコ修道院の回廊(イメージ)

聖フランシスコ修道院の回廊(イメージ)

クロアチア紛争の爪痕と市民のリベルタス精神

しかし、私にとって最も印象に残るのは修道院内に残る1991年のクロアチア紛争時の弾痕です。これはやむを得ずユーゴスラビア連合軍の一員として、ドゥブロヴニクを攻撃せざるを得なかった兵士が、ミサイルの弾薬をこっそり抜いて不発弾とし、その結果、建物を貫通することなく修道院の破壊が免れた跡なのです。

すなわち、ドゥブロヴニクを愛する兵士が、勇気をもって命がけでミサイル弾から火薬を抜き、街を守ろうとしていたのです。

今に生きるドゥブロヴニクの人たちはこのような苦難を乗り越えてこの美しい街並みを取り戻してくれたのです。

つまりドゥブロヴニクにおいてもダルマチアのトロギール市民と同様、「リベルタス(自由)」が大切に守られて今日があるのでしょう。

魅力ある歴史的建造物だけでなく、このドゥブロヴニク市民の「リベルタス」精神も世界遺産にふさわしいと思います。

戦場となった自然遺産「プリトヴィッツェ湖群国立公園」

ドゥブロヴニクと並ぶクロアチアで人気の自然遺産「プリトヴィッツェ湖群国立公園」もクロアチアが独立宣言した後の1991年、連邦からの離脱に反対したセルビア人勢力との紛争の舞台となり、一時的に危機遺産リストに登録されてしまいました。

このプリトヴィッツェ湖群国立公園はブナやモミの自然林に囲まれた渓谷に大小16の湖、92の滝が点在する自然の芸術で、エメラルドグリーンの幻想的な世界を現出しています。

一帯は主として石灰岩のカルストからなり、湖群ではコケ類やバクテリアなどの光合成によって生まれた白い石灰質堆積物(石灰華)が自然のダムを造っており、水の色は、ミネラルの量や日照の角度などによって、鮮やかなエメラルドグリーンや灰色など絶え間なく変化するのです。

また、周囲の樹木は高山植物もあれば地中海の植生も見られ、生息する動物の種類も希少種も含めて数多く棲息しており、まさに生態系の博物館でもあります。

画像1: プリトヴィッツェ国立公園(イメージ)

プリトヴィッツェ国立公園(イメージ)

下湖群の入り口にある高台の展望台から渓谷を見下ろすと、「大滝」の名で親しまれるプリトヴィッツェ滝の雄大な姿と、緑の樹海の中に横たわる湖から溢れ出た水が、下の湖へ流れ、それがまた下の湖へと段々畑のように次から次へと注ぎ込まれていく、この光景はまさに「自然界の調和」です。

画像2: プリトヴィッツェ国立公園(イメージ)

プリトヴィッツェ国立公園(イメージ)

調和する自然界で「人類の調和」を目指して輝くクロアチア

このプリトヴィッツェ湖群国立公園付近では、人類もケルト人、ローマ人、スラブ人など多様な民族が次々とかわるがわる住みつき、16世紀にはイスラムのオスマントルコが支配して、その後、オーストリアが一帯を軍政国境地帯にしました。

そして、ユーゴスラビア時代になって、人気の観光地になったのですが、ユーゴスラビアが崩壊した後にはドゥブロヴニク同様に戦場と化したのです。

今では平和を取り戻し、クロアチア最大の観光地になっていますが、この公園の魅力はやはり水が紡ぐ自然界の調和であり、静と動のハーモニーです。

そこでこの地で人類の調和、すなわち友好関係が築かれれば、この公園はもっと輝きを増し、ドゥブロヴニクに勝るクロアチアの人気スポットになると思います。

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