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こんにちは、クラブツーリズム中国五千年俱楽部を担当しております王と申します。どうぞ宜しくお願い申し上げます。
『詩仙・李白の旅路』の第三回目は、漢詩『早に白帝城を発す』と、李白の今回の旅の出発地の白帝城(はくていじょう)の旅をご案内します。では、まず漢詩をご紹介いたします。
漢詩のご紹介
『早(つと)に白帝城を発す』 李白
漢詩の意味
夜明け、 朝焼け雲のたなびく 白帝城に 別れを告げ、千里も離れた江陵(こうりょう)に 一日で帰り着いた。両岸の絶壁で鳴く猿の声がまだ 耳から離れぬうちに、軽快な 我が舟は 幾重にも重なる山々を一気に通り抜けたのだ。…松枝茂夫訳
この漢詩の魅力やその他詳細については最後のYouTube動画をご覧くださいませ
漢詩の生まれた背景
755年、安史の乱が勃発し、李白は、一家を連れて、長江中流の広陵(今の九江)へ避難し、廬山(ろざん)で隠居生活をしていました。ちょうど同じころ、唐の玄宗の16番目の息子の李璘(りりん)も広陵におり、安史の乱に乗じて、皇帝になろうと企んでいました。李璘は、李白の知名度を利用する価値があると思い、李白を訪ねて説得し、自分の幕僚になってもらいました。
ところが、その翌年に、唐の玄宗の三番目の息子・唐粛宗(とうしゅくそう)が即位しました。謀反(むほん)の罪で李璘が殺されてしまい、李白も同じ罪で終身流刑(るけい)を言い渡され、悲しみと失意を胸に、当時辺鄙な地域の夜郎(今の貴州省)へ護送されることになりました。
流刑地までもう少しの白帝城に辿り着いた時、なんと恩赦の朗報が届きました。夢にも見なかった恩赦が天から舞い降り、再び自由を取戻せた李白!一刻も早く金陵(今の南京)にいる家族に会いたいと、早速白帝城から帰りの船に乗り、出発いたしました。
気持ちが晴れ晴れした李白はこの漢詩を書きました。
李白の出発地の白帝城を旅しよう
李白が出発した白帝城は、三国志ゆかりの地でもあり、蜀の皇帝・劉備玄徳が亡くなった場所です。
今から約1800年前の三国時代、中国には魏・呉・蜀の三つの国がありました。219年、蜀の皇帝・劉備玄徳の義理兄弟の関羽が呉の王・孫権に殺されたため、怒り心頭の劉備玄徳は、自ら大軍を率いて呉へ赴き、関羽の仇討ちの戦争を起こしました。
しかし、劉備玄徳が惨敗してしまい、成都に撤退する途中の白帝城に着いた時、重い病気を患ってしまい、そのまま白帝城に留まることとなりました。そして、約1年後の223年、劉備玄徳はここ白帝城で亡くなりました。劉備玄徳は亡くなる前、諸葛孔明を白帝城まで呼び、後継者の劉禅の面倒を見てほしいと託しました。これは三国志の「劉備玄徳 白帝城にて孤児を託す」という有名な物語です。
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