皆様、こんにちは!クラブツーリズム中国五千年倶楽を担当しております王と申します。どうぞよろしくお願いいたします。
さて、『名馬が踏み開いた三国への道』の「前半」では、呂布と関羽が乗っていた天下無双の名馬~赤兎馬(せきとば)の話をいたしましたが、今回は曹操、劉備の愛馬の物語から三国志を楽しんでいただければと思います。
~名馬・絶影(ぜつえい)~
矢を3本負ってもなお走り、魏の初代皇帝の曹丕と不思議な運命に結ばれた?!
前回のブログでは、紀元190年、18諸侯が集結し董卓(とうたく)を討伐(とうばつ)する話を致しました。この討伐の呼びかけ人だった曹操が、その後、地道な努力を重ね段々と勢力が強くなってきました。6年後の196年、曹操が洛陽に避難してきた漢の献帝を迎え入れ、自分の拠点である許都(現在の河南省・許昌)へ遷都させました。翌年、まだ多くの軍閥が割拠(かっきょ)する中、曹操が先に近場の苑城(現在の河南省・南陽)の張繡(ちょうしゅう)を征服することに挑みました。
ところが、苑城の張繡がなんと一戦も交わすことなく、すんなりと降伏しました。楽に苑城を手に入れた曹操は気が緩み、ある日、お酒を飲んだ後ぶらぶらと街を歩いていたら、すれ違って馬車に乗っていた美しい女性と目が合い、一目惚れしてしましいました。曹操は、この女性が張繡の親戚の未亡人と知ったのにも関わらず、我を忘れてお酒と女色ばかりに溺れていました。一方の張繍ですが、苑城を献上してあげても満足せず、親戚の未亡人まで手を出した曹操を恨み、一転して苑城から曹操を追い出すことを決めました。
夜、曹操の陣屋にいきなり張繡軍が現れ、見張り番の典韋(てんい 武将)が粉骨砕身(ふんこつさいしん)まで戦い(2回目のブログ参照)、曹操がなんとか愛馬の「絶影」に乗って陣屋から脱出することができました。この「絶影」という馬は、西域生まれで、走れば馬自身の影すら追いつかないくらいの俊足で、「影を絶つ」という意味の名前を付けられた駿馬です。
張繡が逃げる曹操を追いかけますが、絶影の速さに及ばないので矢を射るようと命じました。雨ばかりと矢が降り注ぐ中、絶影が体に3本の矢も当たってしまいましたが、それでも痛みを耐えて曹操を背負って奔りました。苑城を出て川を渡ろうとする時、今度は伏兵に囲まれ、曹操の甥が必死に抵抗して時間を稼ぎ、曹操がやっと対岸に這い上がることができました。
ところが、なんと!飛んできた一本の矢が絶影の目に突き立ってしまい、とうとう馬も倒れてしまいました。絶体絶命の曹操を見て、曹操の長男・曹昂(そうこう)が迷いもせず、さっそく自分の馬を父親に譲り、やっと曹操が逃げ切れました。
苑城の戦いは、曹操にとって、楽勝から惨敗へと想定外の結末となり、そして長男と甥、三国志では3番目の勇将と言われる典韋に愛馬の絶影も失いました。その後、曹操は肉親の息子と甥よりも、典韋と絶影のために厳かな葬式を行いました。たった一頭の馬に過ぎない絶影を手厚く葬ったことから、曹操がいかに俊足でずば抜けの忍耐力の絶影を愛していたのかが分かりますね。
苑城の戦いで、もし絶影が死ななければ、曹操の長男の曹昂が自分の馬を父親に譲ることも死ぬこともないですね。古くから長男が後継ぎになるという習慣に従えば、後に曹操の次男の曹丕(そうひ)ではなく、長男の曹昂が魏の初代皇帝になったはずでしょうね。実際、魏を建国し初代皇帝になったのが曹操の次男の曹丕なので、絶影と曹丕、もしかしたら、不思議な運命に結ばれていました?!
~名馬・爪黄飛電(そうこうひでん)~
「天子を頼みにして諸侯を命ずる」曹操を更に引き立てる
絶影を失くした曹操が、その後乗っていた馬は「爪黄飛電」(そうこうひでん)という名前です。同じ西域生まれの馬で、体が上品な白、四本の蹄だけが黄色、バランスの取れた体つきで見る人の目を奪われるほどの美しい馬でした。
曹操は、苑城の戦いで負けましたが、翌年の198年、無敵の呂布もついに倒し、天子(漢の献帝)すら曹操の顔色を見ないと物申しができない有り様でした。側近の策士ら(ブレーンたちの意味)が曹操に、「もう皇帝のことを気にせず、もっと大胆に覇業を進めよう」と進言しますが、用心深い曹操が、先に自分の威力はどこまであるのかを確かめるべきと思いました。そこで曹操が、漢の献帝と群臣武将らに「許田(きょでん 地名)の狩」に参加させる計画を立てました。
狩りの日を迎え、曹操が「爪黄飛電」に乗って献帝のすぐ後ろを走り、しばらくすると、草むらから一匹の鹿が現れました、献帝が早速矢を出して連続3本も射ましたが、全部外れてしまいました。深く考えない献帝がすぐ後ろの曹操に自分の弓矢を渡し、「射てみたまえ!」と言いました。曹操が献帝から皇帝専用の弓矢を受け取り、力いっぱい弓を引き、ひょっと矢を放ち見事に鹿を的中しました。鹿に刺さった皇帝専用の矢だけを見た群臣は献帝が射られたと思い、一斉に「万歳!万歳!」と叫びながら駆けつけてきました。そこで、曹操が爪黄飛電に一鞭を打ち、平然とした顔で献帝の前に出て、群臣からの「万歳の礼」を受けました。品高き風貌の爪黄飛電に跨る厳めしい曹操の姿、これを見た群臣武将たちは一瞬表情が固まりましたが、曹操を恐れて立ち上がって指摘する人は一人もいませんでした。
「許田の狩」を通じて、曹操が群臣の中に、もう自分を逆らう人はいないことを確認できました。それ以降の曹操は、「天子を頼みにして諸侯を命ずる」だけでなく、内外の反対勢力に対しても、自分都合で「皇帝に逆らう」の罪名を押し付けて、堂々と次から次へと出兵して駆除していき、後に息子の曹丕が新たに魏王朝を建てる環境を整えました。そして、高貴な「馬相」をする爪黄飛電ですが、「許田の狩」の後、曹操が戦場ではなく、凱旋や祝い事の時だけ乗っていました。
俊足と抜群の忍耐力を持つ「絶影」とは違い、爪黄飛電は品高き美しい「馬相」で曹操の覇業に貢献しましたね。ちなみに、中国では、「人靠衣装、馬靠鞍」という諺があり、「人はちゃんとした服を身にまとえばマトモに見え、馬はちゃんとした鞍があれば駿馬に見える」という意味です。「許田の狩」の曹操は、ちゃんとした馬に乗っていたから、より一層、威風堂々に見えたのに間違いないですね。
<余談>「許田の狩」で曹操に無礼された漢の献帝が皇居に戻った後、悔しい余りに指を噛み破り、血で「曹操を滅ぼして漢王朝を復興せよ」の密詔(みつちょう 秘密の勅書)を書きました。この勅書に劉備も血判を押したことが曹操にバレてしまい、後に徐州で曹操に撃たれる羽目に遭いました。そして、劉備が大負けして逃げ、妻の2人と関羽が曹操に捕まりました。「怪我の功名」、逆にこの負けで関羽が曹操からあの名馬の赤兎馬を手に入れました。
~名馬・的蘆(てきろ)~
檀溪を飛越え、彷徨う劉備を「天下三分」の道へ導く
では、ここからは劉備が乗っていた名馬「的蘆」(てきろ)の話をさせていただきます。
劉備、関羽と張飛の三人が再会できた後、趙雲(ちょううん、三国志2番目の武将)も陣営に加わりましたが、肝心な居場所はまだ一つも持っていませんでした。仕方なく、劉備が自分と同じ漢王朝皇族の末裔である荊州の長官・劉表(りゅうひょう)の処に身を寄せ、田舎町の新野(現在の河南省新野市)を守衛する職に就きました。その後、劉備が張武(ちょうぶ)の反乱を鎮圧して一匹の駿馬を手に入れました。 しかし、この馬は、体格も毛艶も良く、足も非常に快いですが、一つだけ残念なことは、目の近くに涙の跡に見える斑があり、所謂、持ち主に悪運をもたらす「的蘆」(てきろ)という「馬相」をしています。周りから不吉な「的蘆」を早く手放すようと勧められましたが、劉備は気にもせず乗ることにしました。
一方、ある日、劉表が劉備を呼び、長男より次男に後を継いでもらいたいと相談しました。劉備は、古くから伝わってきた長男が後継ぎになる慣習を破ると、必ず紛争が起きるとアドバイスし劉表に断念させました。ところが、二人のこの会話が屏風(びょうぶ)の後ろに隠れ、劉表の次男を生んだ蔡(さい)氏に盗み聴かれました。蔡氏が早速軍権を握る兄の蔡瑁(さいぼう 武将)を呼び、早く劉備を始末しないと我が子が後継ぎになれないと告げました。
来る秋の事、劉備を殺そうと企んだ蔡帽が、襄陽(じょうよう 現在の湖北省襄樊)で豊作を祝う宴会に劉備を招待しました。宴会中に蔡帽の陰謀を知った劉備が、トイレに行ってくると嘘を言い、的蘆に乗って慌てて逃げ去りますが、襄陽城を出たところでなんと深い檀溪(長江の支流の支流)が目の前に横たわっていました!急スピードで走ってきた的蘆が止まれずそのまま川に落ちてしまい、いくら劉備が鞭打っても的蘆が嘶くばかりで動けそうもありませんでした。追いかけてくる蔡帽たちがもう見る見るうちに迫ってきて、劉備が天を仰いで、「的蘆や的蘆、お前が本当に主の俺に悪運をもたらすのか?!」と叫んだら、なんと!立往生の的蘆がヒ~ンと長く嘶き、不思議に前足を高く上げて跳び立ち、1mの高さもある檀溪の対岸へと一気に飛び越えました。
ずぶ濡れの劉備がひたすら逃げに逃げて、人影の少ない野原に着いたところでやっと的蘆を止めて一息が着きました。しばらくすると、日も傾き始め、狼狽の自分を見て、劉備が「もう47歳になるわしが、いまだに彷徨う(さまよう)身で成果一つも成し遂げておらん!」と嘆いたところ、遠くから笛を吹きながら牛に乗った牧童が近づいてきました。「もしかしたら、あなたが劉備将軍?!」と少年に声かけられ、劉備が話を聞くと、牧童が水鏡(すいきょう)先生(隠居の賢人)に仕えており、日頃、劉備の事を耳にしていたとか。その夜、劉備が水鏡先生のお宅に泊まり、会話の中で初めて諸葛孔明の事を知りました。
不思議な瞬発力で檀溪を越えた的蘆のお陰で、劉備が助かり、しかも逃げる道中に水鏡先生に出会え、諸葛孔明のことを知りましたね。後の「三顧の礼」を経て、劉備がやっと諸葛孔明という天才の軍師を迎え入れることができ、転々と彷徨う身からようやく「正しい覇業の道」に辿り着くことができました。「捨てる神あれば拾う神あり!」、的蘆がまさに劉備の拾う神ですね。的蘆の檀溪越えがなければ、劉備の運命、そして三国志がどのような展開になったのでしょうか…
~名馬・的蘆(てきろ)~
龐統(ほうとう)が代わりに命を落とし、劉備が夢の成都を手に入れる
さて、天才の軍師・諸葛孔明の「東の孫権と連合し、西川(現在の四川省と重慶)を手に入れて、北の曹操を牽制する」という「天下三分の計」に従い、劉備がまず孫権と同盟を結び赤壁の戦いで曹操を大破しました。その後、諸葛孔明と肩が並ぶ才能を持つ「鳳雛(ほうすう)先生」と呼ばれる龐統(ほうとう)も副軍師として迎え入れました。「臥龍(がりゅう 諸葛孔明のこと)と鳳雛(ほうすう 龐統のこと)、一人でも得れば天下が取れる」と言われている通り、二人の補佐で劉備の覇業が順風満帆に進みました。長沙、貴陽と次から次へと地盤を広げ、黄忠(こうちゅう)や魏延(ぎえん)などの武将も加わり、劉備の勢力が日に日に強まってきました。
ちょうどその時、劉備宛に、同じ漢王朝皇族の末裔である西川の劉璋(りゅうしょう、諸侯)から一通の手紙が届きました。「漢中の張魯(ちょうろ 諸侯)に攻められるゆえ、出兵して助けてくれ」という内容でした。ついに「天下三分の計」に出た西川も手に入れるチャンスが来たと思った劉備が、龐統と一緒に西川への旅路に着きました。
紆余屈折を経て、劉備がやっと西川の中心である成都を攻める段階に入り、安全牌を取って兵力を二つに分け、広い道と山道の両方から出兵することを決めました。「険しい山道の方は我こそ行くべき」と、優しい劉備と龐統が言い争いますが、結果、劉備が広い道から、龐統が劉備の愛馬~体力が優れる的蘆を譲り受けて山道からと、やっと出発できました。ところが、的蘆に乗った龐統一行が落鳳坡(らくほうは)に着いた時、いきなり大砲が鳴り響き、両側の草むらから敵の伏兵が一斉に現れてきました。「あの白い馬の的蘆に乗っている人が劉備だ!」との叫声と共に、飛んでくる乱矢を受けて龐統が落馬し、悲しくもここで命を落とすこととなりました。一方、広い道から出発した劉備は、無事に成都を攻め落とし、長年夢に見た西川をついに手に入れることが実現しました。
檀溪越えで有名になった的蘆が劉備のシンボルになりましたね。良くも悪くも成都攻めにおいては、龐統か劉備に間違えられ殺されてしまいました。的蘆が「主に祟りをなす」と言われた不吉な馬ですが、劉備にとっては命の「恩馬」ですね!
そして、もし、龐統が的蘆に乗らなければ死ぬこともなく、諸葛孔明と龐統、このダブルの天才軍師の補佐があれば、三か国までにはならず、劉備の蜀だけでも、早々に中国を統一できたかもしれませんね。
<余談>三国志では的蘆に関する記述は、落鳳坡以降にはもうありませんので、恐らく龐統と同じ矢に当たって死んでしまったと思われます。現在、四川省の綿陽近郊に位置する落鳳坡には、龐統のお墓が残っており、併設の龐統廟(びょう)には的蘆の彫像も置かれています。
馬が魏・蜀・呉の運命を決めていた?!
さて、魏・蜀・呉の三か国ですが、まず魏が蜀を、次に魏を乗っ取った晋が呉を滅ぼし、いわゆる魏(晋)の最終勝利で280年に三国時代の幕が閉じました。では、なぜ諸葛孔明という偉大な軍師を擁する蜀が魏に負けたのでしょうか。そして、最も肥沃な長江中下流域を持ち、面積においても魏とは大差の無い呉が中国を統一できなかったでしょうか。その理由には様々な要因がありますが、所有する馬の数、つまり当時最強と言われる騎兵の数によって、それぞれの運命が決まっていたとも言えるでしょう。魏・蜀・呉が、それぞれどのくらいの騎兵を持っていたのかについての詳しい史料はありませんが、この三か国の地理的な位置から分析してみたいと思います。
まず魏ですが、北は羌胡(きょうこ、匈奴とモンゴル人含む)、鮮卑(せんぴ)といった騎馬民族の暮らす地域と隣接しており、これらの少数民族から馬を買うことができます。さらに、西に馬の産地である西涼(現在甘粛省)も擁するため、三か国の中で最も馬の入手に困らず、馬の資源も豊富だと言えます。また、時々起きる北の少数民族との紛争も、ある意味、魏の騎兵の訓練にもなりますし、捕虜の中から馬術に長ける人材も獲得しやすいと考えられます。前回と今回のブログを見て、すでにお気づきかと思いますが、曹操は劉備や孫権と比べ、赤兎馬に絶影、爪黄飛電と、最も多くの名馬を持っていましたね。
次の蜀ですが、西は山と高原が繋がる標高の高いチベットと青海(せいかい)に隣接しており、都の成都の位置する四川盆地は古から農耕が盛んな地域です。唯一、西北部の一隅だけ、騎馬民族の羌人(きょうじん)が暮らしており、馬の産地の西涼と繋がっています。この西涼を管轄していた人は、劉備と同じ、漢の献帝の密詔(みつちょう)に血判をした馬騰(ばとう)とその息子の馬超(ばちょう 武将)です。劉備は馬騰との「血判した同士」の関係もあり、曹操に敗れた馬超が後に劉備勢に加わりました。実は、馬騰の奥さん、つまり馬超の母親が騎馬民族の羌人で、劉備(蜀)が馬超家のネットワークを利用し、西涼の羌人から馬を入手できたと言われています。とは言え、馬の入手に困らない魏と比べれば、やはり雲泥の差があります。
最後の呉ですが、所有する長江中下流域とその南は、気候が温暖で水が豊富なので、古くから農業と水産業が発達した地域ですが、牧畜や、馬の資源が乏しい場所であります。幸い、長江という天然な「障壁」が魏(晋)との境界になっていますので、長年存続できたとも言えるでしょう。魏(晋)は、陸戦では騎兵の威力は発揮ですますが、水上の戦に不得意のため、長い間、呉との併存を許すしかなかったです。最後、無能な呉の四代目の皇帝になってからの280年に、魏から生まれ変わった晋がやっと呉を滅ぼすことができました。
現代の「名馬」
重要な軍事力、交通手段として人類に貢献してきた馬ですが、19世紀に蒸気機関車と車が発明されてから、社会的な役割が段々薄まってきましたね。現在、趣味としての乗馬、スポーツとしての馬術、レジャーとしての競馬など、馬の活躍場所がごく限定的になりましたね。そう言えば、昨年、コントレイルが史上初の父子無敗の三冠を達成しましたね。競馬というレジャーのない中国ですが、実は今も多くの「名馬」が走っています。きっと皆様もご存知の「馬」を下記から見つけると思います(笑)
<外国産の名馬>
BMW:中国名は宝馬(ボーマー)
MAZDA:中国名は馬自達(マーズーダー)
NISSANのTRAIL系列:中国名は奇駿(チージュン)
<中国国産名馬> 宝駿、漢騰など
つまり車のことですね!中国では、馬を愛する気持ちは車の名前で表していますね。そう言えば、馬をロゴに取り入れている車も多くありますね。例えば、ポルシェ、フェラーリ、フィアット・・・ 時代が変わっても、馬を思う気持ちは世界共通ですね。
小テスト
諸葛孔明並みの才能を持つ龐統(ほうとう)が亡くなった場所は下記のどれでしょうか。正解は答えた後に出てきます。
正解はAの落鳳坡です。 現在の四川省の綿陽市近郊にあります。龐統の別名が鳳雛(鳳凰の雛)先生、「鳳凰の雛が鳳凰を落とす坡(丘)で死んだ」と、覚えやすくなります。
Bの許田は曹操が狩りを行った場所。Cの檀溪は的蘆が飛越えた川、Dの苑城は曹操が愛馬の絶影を失くした町。
皆様に、名馬の赤兎馬、絶影、爪黄飛電、的蘆に乗っていただき、『名馬が踏み開いた三国への道』を駆け回っていただきました。英雄の右「足」として役割を果たした三国志の名馬は他にもたくさんあります。例えば、趙雲の愛馬で真っ白な「玉獅子」、体が真っ黒で四本の蹄だけが白の張飛の愛馬「烏雲踏雪」、合肥の戦いで孫権を助けた「快航」など…ご興味のある方はぜひ『三国志』を読んで探してみてくださいね。
次回は『三国志を美しくした女性たち』、次回の クラブログ をお楽しみください。
【え~?これも三国志?!】全10話好評公開中!
第1回「導入編/熟語と諺から読む三国志」
第2回「美味しい三国志」
第3回「お酒が造った三国志 一杯目」
第4回「お酒が造った三国志 二杯目」
第5回「名馬が踏み開いた三国への道①」
第6回「名馬が踏み開いた三国への道②」
第7回「三国志を美しくした女性たち①」
第8回「三国志を美しくした女性たち②」
第9回「名言が語る三国志 曹操編①」
第10回「名言が語る三国志 曹操編②」
2021年1月に実施した「三国志オンライン説明会」について
2021年1月23日に、オンラインにて三国志の説明会を行い、全国から約90名様にご参加いただき、誠にありがとうございました。ご参加の方から、おススメの三国志の本を紹介してほしいというご質問がありましたので、ここにてご紹介いたします。
日本語の三国志をすべて読んだわけではありませんが、個人的に、やはり見慣れていない漢字の人名や、武器、地名が多いので、文字ばかりの本より先に漫画(横山光輝作)から読んだ方がよろしいかと思います。漫画版を見てから、更にご興味があれば、井波律子訳の『三国志演義』、または吉川英治作の『三国志』を読んでみたらいかがでしょうか。読みやすく書かれていますので、最後まで読み続けると思います。ご参考になれれば幸いです。
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